2019年09月20日 1592号

【非国民がやってきた!(314)国民主義の賞味期限(10)】

 「国民主義の賞味期限」を現在の日本で問うことは、一方で近代国民国家の賞味期限を論じることであり、他方で東アジアにおいて大日本帝国が残した負の遺産を論じることであり、両者をつなげ直して考えることです。

 しかし、それに尽きるわけではありません。戦後民主主義の日本を問い直すことが不可欠だからです。

 平和主義と民主主義の日本であるにもかかわらず、「日本国民統合の象徴」たる天皇(制)が残存し、しかも現実に圧倒的多数の「国民」が天皇主義者として振る舞っています。

 平和主義と民主主義の日本であるにもかかわらず、日本国憲法よりも上位に日米安保条約がそびえ立ち、しかも現実に日本政府の外交及び軍事政策はアメリカの「属国」と言うより他にない体たらくです。

 こうした意味で、日本では「国民」が二重三重のねじれた存在とならざるを得ないからです。

 「国民主権」の名の下に天皇に拝跪する国民。

 「国民主権」の名の下にアメリカに拝跪する国民。

 この謎は長い間、人文社会科学の混迷の渦の中心を成してきました。歴史学においても文学においても、法学においても政治学においても、つねに論究の対象でした。

 ブリティッシュ・プログレッシヴ・ロックの雄、ジェネシスGenesisの「Selling England by the Pound」になぞらえて言えば、「日本をグラム単位で売り飛ばすことこそ戦後日本政治の要諦であり続けた」ということになります。

 唐突な比喩で済みません。「Foxtrot」や「Nusery Cryme」など初期ジェネシスの熱烈なファンだったものですから。フィル・コリンズがマイクを握る前、ピーター・ガブリエルが異形の「音楽騎士」だった時代のことです。

 さて、「日本売ります」――沖縄を売り、思いやり予算をつぎ込み、兵器の爆買いをするのも、日本国民の、日本国民による、日本国民のための民主主義であるという奇怪な「喜劇悲奇劇(きげきひきげき)」(泡坂妻夫の傑作ミステリーから言葉だけ借用)には、「君、売り給うことなかれ」という台詞は用意されていません。安倍商店の大出血サービスが続く由縁です。

 この謎に迫った研究は少なくありませんが、最近の優れた研究と言えば、田中利幸『検証「戦後民主主義」』を筆頭にあげるべきでしょう。田中は冒頭、次のように問題設定します。

 「いわゆる『慰安婦(日本軍性奴隷)』や『徴用工』の問題で日韓関係が最近ひじょうに険悪化していることからも明らかなように、戦後74年も経つというのに、なぜ日本は『戦争責任問題』を解決できないのであろうか。この疑問について考えるためには、単に日本の『戦争責任意識の欠落』だけに視点を当てるのでは解決にはならない。日本の『戦争責任問題』は、最初から、米国の自国ならびに日本の『戦争責任』に対する姿勢と複雑に絡み合っていることを知る必要がある。さらには、その絡み合いが日本の『戦後民主主義』を深く歪め、強く性格づけてきたのであり、そうした歴史的経緯の結果として、多くの日本人の『戦争責任意識の欠落』と現在の日本政府の『戦争責任否定』があることを明確にする必要がある」。

 そこで田中は「戦争責任問題」を歴史的に読み解くために空爆、原爆、平和憲法の3点に絞って切開を始めます。それゆえ本書は次のような構成となります。

 序文 アジア太平洋戦争と「戦後民主主義」

第1章 米軍による日本無差別空爆と天皇制ファシズム国家の「防空体制」

第2章 「招爆責任」と「招爆画策責任」の隠蔽――日米両国による原爆神話化

第3章 「平和憲法」に埋め込まれた「戦争責任隠蔽」の内在的矛盾

第4章 象徴天皇の隠された政治的影響力と「天皇人間化」を目指した闘い

第5章 「記憶」の日米共同謀議の打破に向けて――ドイツの「文化的記憶」に学ぶ

 各章のタイトルを眺めればそれだけで、従来の戦後民主主義論や平和憲法論への厳しい挑戦が意図されていることがわかるでしょう。

 先に「日本をグラム単位で売り飛ばすことこそ戦後日本政治の要諦であり続けた」と表現した、露骨にむき出しにされながら「秘密」であり続けた戦後史の謎を解明することが課題です。

<参考文献>
田中利幸『検証「戦後民主主義」』(三一書房、2019年)
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