2000年11月03日発行663号

【「学力低下」の何が問題か 民主主義の根幹を揺るがす 奪われた未来・学ぶ意志】

小学校6年間での主要4教科授業時間の変化

 「新しい学習指導要領は学生の学力低下に拍車をかける」−−このような文部省批判が大学関係者や財界の一部で広がりを見せている。これらの主張は「人的資源の劣化=技術立国日本の危機」といった文脈でなされることが多いが、事態の深刻さはそれだけにとどまらない。「学力低下」の何が問題なのか。

義務教育を破壊

 「義務教育の基本機能を完全に破壊する」「小学校算数は古代エジプト以前に逆戻り」−−そこまで酷評される新学習指導要領(二〇〇二年完全実施)とは一体どのようなものなのか。

  • 小学校のかけ算は二桁どうしや三桁×一桁まで。
  • 円周率はおよそ3でいい。
  • 五百あった中学校の必須英単語が百に減る。

 確かに、この内容では基礎学力のさらなる低下は避けられそうもない。

 そもそも学習内容の切り下げは独占資本の労働力政策に合わせたものだ。「雇用の流動化」を進める企業にとって、子どもたちの大半は将来の使い捨て労働力でしかない。その育成に多額の予算を費やすのはムダ、というわけだ。

 だが「学力低下」のすさまじさに動揺したのか、さすがに異論が出始めた。たとえば、元経団連会長の平岩外四が理事長をつとめる「地球産業文化研究所」が新指導要領の全面中止を求める提言をまとめている(10 / 14日経)。

 勤勉で良質な労働力が供給されなくなると日本企業の国際競争力が低下する−−こうした主張は事態の一端をとらえているが、カリキュラムを多少いじるぐらいで「学力低下」に歯止めがかかるとは思えない。

 なぜなら、「学力低下」の背景には子どもたちの「学ぼうとする意志」そのものが衰えているという深刻な事態が横たわっているからだ。

学びからの逃走

 一般的に「日本の子どもは勉強に追われてゆとりがない」と言われていたが、それは一部の子に限られた状況になった。現実には「学びからの逃走」(佐藤学・東大教授)と称される事態が起きている。

 このことを端的に示すのが、学校外における学習時間(塾での学習も含む)の減少だ。総務庁の国際比較調査(95年)によると、一日に三十分以内しか勉強しない子の割合が日本は41・7%に達している(ちなみに米国は21%、韓国は11・3%)。日本の子どもたちの学習時間は世界最低の水準に落ち込んだと言っても過言ではない。

 子どもたちは早くから自分の能力に絶望し、将来への希望を失っている。あきらめ感からか、勉強する意欲などないし、社会的な問題に関心を向けることもない…。どうしてこんなことになってしまったのか。

 今や子どもたちの選別は小学校高学年段階で完了してしまう。そこで切り捨てられた子どもたちは低賃金・不安定雇用者以外の道をほとんど閉ざされると言ってよい。

 事実、経済のグローバル化は若年労働力市場の急激な縮小をもたらし、一九九二年に百六十四万人あった高卒者の求人数は九九年には約八割減の三十七万人に減少した。

 知識や教養の習得が自分の将来に何のメリットももたらさないとなれば、学ぶ意欲をなくしてしまうのは当然だろう。これは大卒者の場合も同じこと。企業の論理が若者から未来を奪っていることを棚に上げ、彼らの「学力低下」だけを指弾するのはナンセンスというものだ。

 現在、文部省は「各人が自分の人生設計にあわせて教育コースを選べばいい」という論理のもとで、教育の「選択自由化」を推進しようとしている。しかし肝心の公教育が陳腐化してしまえば、私学や塾に頼ることのできない低所得者層は将来の可能性を大きく制限されることになる。

 努力しても決して浮かび上がることができない社会で、希望をなくした子ども・若者たちの閉塞状況が深化するのは目に見えている。

批判精神の欠落

 十三年前、米国の学生の「学力低下」を社会・文化の問題だと論じてベストセラーになった本がある(アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』)。

 「書物を読まなくなったために現代の学生の精神はより狭くなってしまった。『狭い』というのは、彼らにとって最も必要な物−−現状に対する不満と、それにとって代わるものが存在するという意識を生む真の基礎−−が欠けているからである」

 この指摘は今の日本の若い世代にそのままあてはまる。「学力低下」、その背景にある若い世代の無力感・閉そく状況は民主主義の根幹を揺るがす問題なのだ。

 公教育の役割を縮小し、国民の知的レベルを落とすような「教育改革」を進めている国に未来はない。目先の儲けしか考えていない独占資本の愚行は日本社会の壊死を引き起こしかねない。  (M)

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