「教養のある人」という言葉で、どんな人を思い浮かべるだろうか。まず、博学の物知り、次に洗練された、上品な立ち居振舞いのできる人、といったところだろうか。
どもこれは、なんか胡散(うさん)臭い感じがする。そもそも「教養」の本質とは何なのか?
こんなことを問うているのも、実は大学ではこの問題が重大問題になっているからである。だが、これは大学の内部だけで問われるべき特殊な問題ではないと思う。
世間一般では、幅広い分野に通じた博学の知識人が「教養人」と呼ばれる。でも、百科事典を背負って歩いているような「ただの物知り」を「教養人」とは呼ばないだろう。ましてや、その知識をひけらかして得意がっているような連中は、「教養人」の対極にある「俗物」である。すると、「教養」の核心をなしているのは一体何なのか?
浅羽通明は『野望としての教養』の中で、「自分がどういう人間なのかを知る。これが[大学での]一般教養の核心なんです」という阿部謹也の言葉に言及している。
阿部はこの言葉を、僕が以下で使うような脈絡とは別の意味で使っているのだが、核心を突いていて興味深い。
僕流の理解では、「教養を積む」ことの核心には「自分」をより深く耕そうとする働きがなければならない。知識の「量」としての「教養」はその付随物である。
今、地面にスコップで穴を掘るとする。できる穴は概ね逆円錐形であろう。頂点までの距離が耕した「自分」の深さ、地表面の円=掘り口の広さが「量」としての「教養」ということになる。後者の広さは前者の深さに比例する。
たとえば、深さ三十センチの穴を掘るには、掘り口の直径も六十センチほどでよいが、深さ三メートルの自己を形成しようとすれば、その直径はいかほどになろうか?地表に広がったこの円の面積が、その人の「世間」=「世界」の広さ、つまり「教養」の「量」である。自分をより深く耕すことによって、その結果として世界についての知は広がる。けっしてその逆ではない。
深さ三十センチしかない直径十メートルの円の広さを誇る軽薄者を、「ただの物知り」と言い、逆に機械でボーリングするように、直径十センチ、深さ十メートルの穴掘りを「専門馬鹿」と言う。
僕は学生に、いつもこう言うことにしている。あちこちでちょろちょろ穴を掘るな。ここぞと思う一点を、まっすぐ潔く掘れ。そうすれば必然的に世間は広くなる。これを昔は、「一点突破・全面展開」と言った(?)、と。
(筆者は大学教員)