2001年01月05日発行672号

【グローバル資本主義が地球を壊す 環境保護は全人類の課題 トータルな社会変革が必要】

 地球規模で進行する自然破壊は、いまや人類の存続すら脅かしつつある。市場経済圏の拡大(グローバリゼーション)が地球を食い尽くそうとしていると言ってもいい。大量生産−大量浪費の経済システムをあらためない限り、破局の道は避けられない。地球環境の保護は全人類的な課題なのだ。

深刻な環境破壊

 一九九〇年代は、環境保護やエコロジーという概念が世間一般に浸透した時代ということができる。なぜ、環境問題が注目されるようになったのか。それは世界各地で地球環境の異変を示す現象が頻発し、人々の生活を直接脅かすようになったからだ。

 たとえば、地球温暖化の問題だ。先進工業国が大量の化石燃料を消費し続けた結果、大気中の二酸化炭素やメタンの濃度が上がり、温室効果で地球上の気温は上昇の一途をたどっている。

 急激な気温上昇は気候を変え、すべての生態系に深刻な影響を及ぼす。すでにインド洋では海面温度の上昇によってサンゴの七〇%が死滅した。また、南極や北極の氷が溶けだし海面水位を上げている。この事態を放置すれば、現在の海岸地域や島嶼(とうしょ)は二十一世紀末までに水没すると言われている。

 このほかにも、オゾン層の破壊、動植物の種の喪失、土壌の砂漠化、大気・水の汚染など、地球環境の危機を示す事例は枚挙にいとまがない。人間も生物の一種である以上、当然自然に依存して生きている。環境破壊で自然の恵みがなくなれば、人間は生きていけない。

 この当たり前の真理に気づいて行動を起こす人は確実に増えている。環境保護運動の広がりは、環境問題を国際政治の重要課題に押し上げ、各国政府や企業もこの問題を避けては通れなくなった。

多国籍企業の犯罪

 しかし、九二年の地球環境サミットなどで環境保護の行動指針が再三確認されているにもかかわらず、温暖化防止の問題ひとつとっても、はかばかしい成果は上がっていない。それどころか、ここ数年で事態は一段と深刻化したといえよう。

 その原因は市場経済圏の世界的拡大にある。大量生産−大量消費−大量廃棄という資本主義のシステムが世界を覆い尽くした結果、資源の枯渇や生態系の崩壊が地球規模で起きている。

 しかも多国籍企業は「自由な経済」を大義名分に、環境基準の引き下げや撤廃を各国政府に迫ってきた。厳しい環境規制は彼らの利潤蓄積活動の妨げになるからだ。

 一方、収奪の対象となった第三世界諸国は「貧困と環境破壊の悪循環」に陥っている。経済危機に見舞われた「南」の人々は、残された自然を貧しさゆえに食いつぶさるをえず、それが生活環境をいっそう悪くする(森林の過剰伐採による土壌浸食、洪水被害など)という悲劇である。

 圧倒的多数の人々の犠牲を前提に、一握りの層が「豊かさ」を享受する−−これがグローバル資本主義の本質だ。もっとも、その「繁栄」も長くは続くまい。資源の供給源、あるいは廃棄物の処分場として地球のキャパシティには限界があるからだ。

 それなのに、多国籍企業やその代理人たちは「わがなき後に洪水よきたれ」式の姿勢を変えようとはしない。この無責任さは地球に対する犯罪としか言いようがない。

開発主義の誤り

 ある動物学者は「野生動物の保全を阻む最大の問題はカネだ」と言う。この指摘は、沖縄のジュゴンと新たな米軍基地建設をめぐる問題にもあてはまる。

 基地誘致派も「自然環境の保全」を海上基地建設の条件にあげてはいるが、ジュゴンの生息地に基地ができれば絶滅は目に見えている。基地建設にこだわる態度からは「ジュゴンよりも『経済振興策』だ」という彼らの本音が見え隠れする。

 だが、自然の切り売りはやがて人間の首を絞めることになる。いったん損なわれた生態系は元に戻らない。人々の生活基盤であり、文化を育んできた自然が破壊されれば、それこそ沖縄は「基地の島」であり続ける以外の選択肢をなくしてしまうだろう。

 「生活のためにジュゴンの犠牲は仕方ない」という論理は、「日米安保を維持するために沖縄の負担はやむを得ない」という政府の論理と同じことなのだ。

   *  *  *

 地球環境の危機は、自然を経済の枠外のものと考えてきた開発主義の誤りを私たちに伝えている。自然と調和し、その恵みを公正に分配する社会・経済システムへの転換、軍事力による安全保障政策からの脱却−−地球環境を守るにはトータルな社会変革が必要だ。その闘いは全人類的な課題になっている。 (M)

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