2001年07月27日発行699号

【強制連行の国家責任明らかに 劉連仁裁判 二千万円の補償命じる勝利判決】

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劉連仁さんの遺影を胸に勝利報告(7月12日・東京地裁前) 
写真:劉連仁さんの遺影を胸に微笑む遺族。隣に「戦後十三年間の賠償容認」と書いた垂れ幕を示す支援者。背後には横断幕を手にした多くの支援者が立ち並ぶ

 戦争中に中国から北海道の炭鉱に強制連行され、過酷な労働に耐えかねて逃走、十三年間にわたり山野での生活を強いられた劉連仁さん(昨年九月死去)が国に損害賠償を求めていた裁判で東京地裁は七月十二日、請求通り二千万円の支払いを命じる原告勝利の判決を下した。国は劉さんに対する保護義務を怠ったと認定し、除斥期間(損害賠償請求権は二十年で消滅する)の適用も制限したもので、強制連行の国家責任を明らかにする画期的判決である。

「天国の父も満足」

 東京地裁一〇三号法廷の七十三の傍聴席はすべて埋まった。午後一時二十分、裁判官が入廷する。西岡清一郎裁判長が「まず事実と理由を述べた上で、主文を述べます」と告げた。請求棄却判決なら主文の朗読だけで終わるのが通例だ。原告席も傍聴席もかたずをのんで聞き入った。

 西岡裁判長は、中国人の日本内地への連行が「国策」として行われたこと、その多くが本人の意思を無視した強制的なものであったこと、劉さんが長期にわたり「筆舌に尽くしがたい過酷な体験を強いられた」ことなど、被害事実を認定した。しかし、国際法や中国民法、安全配慮義務違反などに基づく損害賠償請求権については「原告の主張は採用できない」とことごとく否定していく。傍聴席からは「一体誰が責任をとると言うの」といったつぶやきが漏れ始めた。

「除斥期間」を排除

 流れが変わったのは、「戦後の救済義務違反」のくだりからだ。「厚生省は劉連仁の生命・身体の安全が脅かされていることを予測できたにもかかわらず、保護する義務を怠った」「被告は資料の存在を無視し、調査すら行わずに放置した」「そのような被告に対し除斥期間を適用して責任を免れさせることは、劉連仁の被った被害の重大さを考慮すると、正義公平の理念に著しく反している」−−国の責任を厳しく指摘する西岡裁判長の言葉に「よし」の声が上がる。請求した二千万円全額の支払いを命じる主文が読み上げられると、法廷は大きな拍手に包まれた。

被害は強制連行に起因

 判決の意義は第一に、強制連行・強制労働を「国策」と認め、日本国家の責任を明らかにしたことだ。強制連行そのものへの賠償請求は否定したものの、劉さんの戦後の逃走生活が「国が国策として行った強制連行・強制労働に由来する」と明確に認定しており、他の戦後補償裁判への波及は避けられない。

 第二に、「除斥期間」の適用を排除し、戦後の救済義務を怠った国に対し賠償を命じたことだ。強制連行問題ではこれまで、新日鉄・日本鋼管・不二越・鹿島の各企業との間で勝利和解が実現しているが、裁判では「時効」「除斥期間」などをたてに損害賠償請求が退けられてきた。この壁が突き破られたのだ。

「勇気ある判決」

 強制連行問題の解決をめざす闘いは今、企業責任の追及から国家責任の追及へと重点を移しつつある。「正義・公平」の理念に基づいて国の責任を断罪し賠償を命じた判決が、しかも、これまで請求棄却判決を連発してきた東京地裁から出されたことは、国家の強制連行責任追及の闘いに大きな弾みとなる。

勝利判決にわく支援者(7月12日・東京地裁前)
写真:勝利判決にわく支援者(7月12日・東京地裁前)

 判決の後、都内で報告集会が開かれた。訴訟を引き継いだ長男の劉煥新さんが父の遺影を胸に、参加者の大きな拍手に迎えられて会場に入り、「国の責任を認めた勇気ある判決だ。天国の父もこの結果に満足していると思う。他のいろいろな事件についても責任を認め、謝罪してほしい」とあいさつした。

 高橋融弁護団長は「判決は二十五ページにわたって、一九四二年の閣議決定以来の強制連行の歴史的事実を認定した。その上で、国は分かっていて何もしなかったと、戦後の責任問題につなげる構成をとっている。時の壁も破られた。国は控訴せず、企業とともに補償基金を作る方向で解決してほしい」と訴えた。

【劉連仁裁判 事件の概要】

 中国・山東省の農村で暮らしていた劉連仁さんは一九四四年九月、三十一歳の時、日本に強制連行され、北海道の明治鉱業昭和鉱業所で働かされた。石炭掘りなどの過酷な労働を課された上、ろくな食事を与えられず、「このままでは殺される」と四五年七月仲間と逃走。日本の敗戦も知らないまま、五八年二月に発見されるまで十三年間、北海道の山中で一人だけの逃亡生活を余儀なくされた。

 発見後、日本政府は劉さんを不法残留者扱いし、「契約に基づいて来日し、就労中に勝手に逃亡した」とまで国会答弁。五八年四月、劉さんは政府が支払おうとした十万円の受け取りを拒否して帰国した。

 九六年三月、国を相手に損害賠償を求めて提訴。二〇〇〇年九月、劉さんは判決を見ることなく病死したが、妻の趙玉蘭さんら三人の遺族が訴訟を引き継いだ。

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