ロゴ:生きる 佐久間忠夫 2001年10月19日発行710号

第7回『国鉄就職』

 親しかった樋渡(ひわたり)の兄貴は俺より二つ年上で、新鶴見機関区の事務係にいた。前から「国鉄に来ないか」と誘ってくれていたんだ。

 昭和二十(一九四五)年四月。樋渡の兄貴が「タァーちゃん、どうすんだ」と、また誘いに来た。俺は「学校も卒業したんだし、今は行くとこ、どうせねぇんだから国鉄に行くよ」と応えた。十四歳二か月の時。みんなは「国鉄が好きで」とよく言うけれど、俺はただ流れの中でそうなっただけ。

 彼の世話で新鶴見機関区に入った。保土ヶ谷から川崎に出て南武線に乗って鹿島田。駅から機関区まで十分もかからない。機関区は東洋一と言われた新鶴見操車場の中にあった。幅が数百メートルで長さは四キロくらい。線路がいっぱいあって、構内はでかかった。葦の草がボーボーで用水池があったのを覚えている。

 最初の職名は庫内手(こうないしゅ)。言ってみれば機関車みがき。蒸気機関車のすべてをみがくわけだ。

 専門的になるけど、蒸気機関車はボイラーで湯を沸かして、その蒸気でピストンを水平に動かす。ピストンはロッド(シリンダーと動輪をつなぐ棒)を通して動輪と直結し回転運動に変える。動輪が回って走る。

写真:蒸気機関車の構成部品を示す図

 回転する部分は摩擦が起きるから、油が塗ってある。床回りの部品はごみとほこりにまみれていて、藁(わら)に砂をつけてみがき、その後、カーバイトできれいにする。そんな仕事をやってたから、顔なんか真っ黒になっちゃう。庫内手は笑って白い歯が見えないと、顔が前か後か分からない。だから、当時は「油虫、油虫」って言われてた。

 普通の人は四月一日に就職するけど、俺と樋渡は四月二十五日。当時は軍国主義だったから、一日早ければ先輩なんだな。普通の連中より二十五日遅いから、いじめられたね。ボスみたいなのがいて、気に食わなければ、すぐにぶん殴るのは当たり前。庫内手だけで四〜五十人いたけど、ひどかったのは二列に並ばされて「前の奴をぶん殴れ」。手加減すると「なにやってんだ」と殴られる。しょうがないから、みんな思い切り殴った。軍隊と同じだね。「お前の給料で俺のもの買って来い」とか。こんなことが毎日だったなあ。

 五月頃だったと思う。俺らの上をB29が編隊で飛んで行く。しばらくすると、昼間なのに横浜方面から黒い煙が上るんだよ。管理者が来て「横浜方面から通っている奴はすぐに帰れ」と。電車も何も止まっているから歩いて帰った。

 今でも覚えているのは、東神奈川あたりだったか、焼け野原に焼死体がゴロゴロ。木が燃えたかすの消し炭(けしずみ)、あれと同じようだよ。それが人間の形しているだけで真っ黒。盛り上がっている炭みたいなのがあった。お母さんが子どもを守ろうと思って亡くなってるんだ。母親って大変だなあと感じた記憶が鮮明にある。

 (筆者は国労闘争団員)

ホームページに戻る
Copyright FLAG of UNITY