小泉内閣の発足以来、この国の権力が持つ危険な体質がふたたび前面に出てきた感がある。自衛隊の押し掛け派兵や「不審船」撃沈事件など、「法律など無視して事を進めればいい。理由は後から付けられる」式の動きが目立つのだ。法をないがしろにした権力の危うさは、侵略戦争の歴史が証明している。
法律破りの追跡劇
軍が勝手な行動を起こし、それを政府が追認することで戦火が広がっていく−−かつて日本は、このパターンをくり返しながら侵略戦争の道を突き進んでいった。日中十五年戦争の発端となった満州事変(柳条湖事件 / 一九三一年)がそうである。
その例にならえば、問題の「不審船」事件は「東シナ海事変」というべき危うい要素をはらんでいた。軍(今回の場合は海上保安庁)が法律を無視して独走し、後から政府がお墨付きを与えるパターンがそっくりなのだ。
さらに言えば、「弱腰外交批判」という支配層内のムードが事件の背景にあったことまでよく似ている。事件の経過をふりかえってみよう。
鹿児島港に帰港した海保の巡視船「さつま」(1月5日)
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十二月二十二日午前一時すぎ、「不審船発見」という自衛隊からの通報を受け、東京・霞ヶ関の海上保安庁危機管理センターには百人近い職員が非常招集された。彼らを前に後藤・警備救難部長は、「必ず捕まえるぞ」と檄をとばしたという(12/30毎日)。
「99年の不審船を取り逃がし、批判を浴びた海保。居合わせた職員は後藤部長の声に『雪辱の思い』を感じた」(同)。また、ある海保幹部はこう証言する。「(99年の事件後)『不審船には厳正対処』が方針になった。『今回は取り逃がすわけにはいかない』という雰囲気があった」(12/24朝日)。
こうした海保内の強硬姿勢が法を無視した追跡劇・船体射撃につながっていく。
殺人を事後承認
今回の「不審船」は日本の領海外を航行しており、海保の警察権は及ばない。そこで海保は「漁業法違反」を停船命令の根拠とした。船が漁船ではないことは彼ら自身が承知していたのだから、これは明らかにこじつけである。ましてや、命令に従わないからと発砲し船体に危害を加える権限などどこにもない。
これほど重大な法律破りを海保は独断で進めていった。内閣官房、外務省、国土交通省、防衛庁の幹部らが官邸の危機管理センターに集結したのは、銃撃戦の末に「不審船」が沈没した後のことである。
つまり内閣が把握していない間に、日本の軍事力が人を殺すという戦後史を画す事態が進んでいったのである。これでは「日本は無法国家」と言われても仕方あるまい。
もっとも、海保の法律破りは自分の面子だけからのことではない。「不審船には実力行使も辞さず」は政府・自民党の共通認識でもあった。
たとえば、昨年十一月の海上保安庁法改定によって、相手に危害を与えても領海内なら免責される規定が設けられた。領海外で起きた今回の事件には適用されないが、「法の改正で、海上保安官の『撃ってはいけない』という心理的足かせが取り払われた影響が大きい」(12/23読売)。
海保幹部には「法を順守して取り逃がすより、無視して捕まえたほうがいい。理由は何とでもなる」という判断があったに違いない。実際、その後の政府の対応はというと、海保の法律破りを不問に付し、人命を奪った行為を正当化している。
政府の姿勢が引き金
「不審船」事件における海保の独走は、法をないがしろにする小泉内閣の姿勢がよびこんだものだ。なにしろ首相自らが憲法論議を「神学論争」とあざ笑い、「常識」の連発で憲法の死文化を進めているのである。権力内部に「何をやっても許される」というムードがまん延するのは、ある意味当然であろう。
昨年九月には、インド洋に向かう米空母に対して自衛隊が内閣の承認を得ずに護衛の艦隊を差し向けるという事件があった。憲法が禁止している集団的自衛権の行使にあたる行為を自衛隊が独断で行い、しかもそれが大した問題にもならず、なし崩し的に承認されてしまう。
これは極めて危険な事態である。「不審船」事件後、海保巡視船の重武装化や自衛隊の活用が政府・自民党内で取りざたされている。憲法を無視したこれらの議論が「ロケット砲に対抗する武器を持たせろ」「撃たれる前に撃て」という方向に発展していくことは目に見えている。
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カンボジアPKOへの派兵以降、自衛隊の海外展開が常態化している。いつ武力行使という事態が起こっても不思議ではない。海外駐留の軍隊が事を起こし、戦争が拡大していった歴史をくり返してはならない。 (M)