ロゴ:生きる 佐久間忠夫 2002年02月08日号(2002年01月25日発行)724号

第21回『横浜機関区』

 国鉄労働組合から機関車労働組合(のちの動労)が分裂して半年くらいたったころ、新鶴見機関区の掲示板に転勤希望の案内が貼り出された。

横浜機関区時代の佐久間さん(右)
写真:蒸気機関車C56の運転席後部に立つ佐久間さん

 分裂の動きに反対して闘ったが、国労に残った乗務員は一割ほど。「佐久間、こんだけやったんじゃ、新鶴見にいたってロクなことねえから、横浜機関区に転勤した方がいい」と仲間が言う。俺もそうだなと思って「じゃ、通勤も近くなるし転勤すっか」って。

 俺は瀬戸ヶ谷町に住んでいた。今まで一時間もかかったのに、横浜機関区までは市電が通っていて、十分もかからなかった。昭和二十六(一九五一)年八月八日、横浜機関区に転勤した。国鉄に入って、丸六年目のことだった。

 そこから、また組合運動が始まる。行ってすぐに分会大会があったんだよ。分会長は長瀬っていう人。横浜人活事件原告の藍さんの親父が分会の書記長やってたのかな。革新同志会が多い分会だった。俺に大会の議長やれって言うんだよ。その時は、行ったばかりで言いたいこともねえから、「いいよ」ってやったんだ。新鶴見でガヤガヤやってるっていうのが耳に入ってたんだ。大会の参加者は二十〜三十人だったと思う。

 一番記憶に残ってるのは一つの議事が終わって、次の議事に入ったときのこと。一人の組合員が「いや、議長」って終わった議事のことを話し出したわけ。俺のことだから「もう終わった。一回終わったことは蒸し返すことはできない。そんなことじゃ、大会やってられねえ」って突っぱねた。後で藍さんは「生意気な奴だ」って言ってた。俺は若い頃から、けじめつけるっていうか、駄目なものは駄目って言ってたように思う。

 横浜機関区は仕事の面でも違ってた。日本はその頃、アメリカの占領下だったから駐留軍がいた。駐留軍は船で横浜港に入って、そこから横浜機関区の蒸気機関車に客車を付けて、各地に軍人を運んだ。だから、港のそばの東横浜っていう貨物の駅にもホームがあった。

 横浜機関区だけ機関車から黒い煙を出す。石炭がいいんだな。三池炭で出る煙は真っ黒なんだ。新鶴見の機関車は黄色い煙で悪い石炭。常磐炭だね。新鶴見にいた時から「横浜の機関車はいいなあ」ってうらやましく思ってた。駐留軍の重要な輸送をやってるということで石炭も良かったんだ。占領政策の結果だね。

 国労は当時、「眠れる巨像」って言われてた。組合員が四十万人もいるのに、行政整理による十万人の首切りや、朝鮮戦争のときの組合分裂の動きに、何もできなかった。本当に職場の中は元気がなかったね。

(国労闘争団員)

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