2002年04月12日発行734号

【アフガン戦争被害調査<上> 肉親を殺し、村を放棄させた空爆】

 パキスタンを訪れた「アフガニスタン戦争被害調査団」は、ペシャワール近郊のアフガン難民キャンプで、昨秋の米英軍の空爆後に避難してきた人々から聞き取りを行った。証言から浮かび上がったのは、肉親を殺され、村人すべてが逃げ出すというアフガン民衆の姿だった。


コトカイ難民キャンプ。山の向こうは、
アフガニスタン(3月20日・パキスタン)
写真:キャンプ遠景。テントが立ち並ぶ赤土のキャンプのかなたには山並が連なっている

 パキスタンには、三百万人とも三百八十万人とも言われるアフガン難民が住む。政府も調査をしていないので、正確な数字はわからない。一九七九年の旧ソ連の侵攻以降から避難は始まっており、その歴史は二十年をこえる。

 調査団は空爆後の避難民に会うために、空爆後にできた新しい難民キャンプを訪れた。

 州都ペシャワールのある北西辺境州には九つの新キャンプがある。ほとんどがアフガン国境沿いに設置されている。

 コトカイ難民キャンプは昨年十一月十九日に開設された最新のキャンプだ。ペシャワールから車で北上すること三時間。幾重にも連なる山を越え、小麦畑がつづく盆地を走り抜けた山あいにテント村が広がる。約三千二百家族、二万人余りが住む。

75歳のラシードさん
写真:顔写真

 古くからの難民キャンプは土と泥で固めた家が建てられているが、ここはテントだけだ。冬の寒さと夏の猛暑をテント地一枚でしのぐのは、厳しいに違いない。

 キャンプを管理するUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の職員は、「ここはすべてテントで通す。家をつくる計画は全くない」と断言。「われわれは決して強制的な送還はしないが、自発的帰還を待っている」と語る。

 しかし、難民からは、「とてもすぐには帰れない。平和で安定した状況にならない限り、国に帰ることはできない」との言葉が口々に出る。そもそも国を脱出してきたこと自体が、必死の思いだったのだ。

クラスター爆弾も見た

 アブドル・ラシードさん(75歳)はジャララバード近くで農業と薬草を扱っていた。十一月に空爆が村を襲った。自宅は被害をまぬがれたが、まわりの家々は破壊された。ラシードさんの二人の兄弟を含む村人二十五人が死んだ。あとの全員は村から逃げた。ラシードさんの家族八人も、ひたすら歩いて村を脱出。途中でクラスター爆弾が一キロ先に落ちるのを見たり、酸素がなくなる気化爆弾がさく裂するのを見ながら、三日間歩き通して国境を越えた。

苦難の逃避行を語るラルさん
写真:顔写真

 ラル・モハメドさん(28歳)は一年前に干ばつのために故郷のパクティア州からカブールに移り住んだ。しかし、十一月にカブールの基地近くの爆撃で二人の兄弟を亡くす。直ちにカブールを脱出、車を調達して東部のダラワンタの街へ。そこで空き家を見つけて二十日間ほど暮らす。しかし、夜中の一時にダラワンタの街も爆撃にあう。夜中に家を飛び出し車でジャララバードへ。朝食を食べたのち、国境近くまで車を乗り継ぎ、山道を歩いてペシャワールまでたどり着いた。「三回の車のレンタル費用は一万四千ルピー(パキスタン通貨。約二万八千円)。いろいろな人からお金を借りて調達した」と、ラルさんは空爆に追い立てられながらのカブールからの約一か月間の逃避行の苦難を語った。

全員が村を放棄

祖国を知らない
アフガン難民の子
写真:あどけない笑顔をカメラに向ける子どもたち

 バダム・ガルさん(28歳)はカブール北方のカラバーの村で農業をしていた。カラバーはタリバンの軍事基地が集まっていたところで、十月に集中的な爆撃に見まわれた。村人六十人が死亡、約三百世帯の全員が村を放棄した。ガルさん家族もカブール、ジャララバードを経て国境近くまで車で避難。地雷の敷設のためアフガン国内の移動はどうしても車に頼らざるをえない。費用は三十五万アフガニー(アフガニスタン通貨、約一万円)かかった。徒歩で国境をこえ難民キャンプにたどり着き、ようやく一息がつけたガルさんだが、その後に悲しい知らせがあった。カブールに残っていた父親と兄弟が死んだというのだ。

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