ロゴ:生きる 佐久間忠夫 2002年05月03日発行737号

第34回『中央鉄道学園入学』

 第二次大戦が終わって外地からの引揚者を多く採用してたから、俺は三十歳を過ぎても機関士になれなかった。罐焚(かまた)きを十五年以上もやった。

 しかし、その罐焚きも困難になってくる。国策で炭鉱が廃止され、石炭から石油に変わっていく。貨物輸送も本線は電気機関車で、入替線はディーゼル機関車。そういう形でエネルギー転換の時期にぶつかる。ディーゼルや電気になると罐焚きが不要で、実質的に機関助士も廃止になった。

 昭和三十六(一九六一)年、女房のゆき子が二人目を妊娠して生活も大変になった。機関士になれば給料が四号俸くらい上がる。でも、機関士も先行きなくなるから電車運転士になるかと、運転士科の試験を受けた。

 試験は国府津機関区であった。俺が国鉄に入って機関助士科に通った懐かしい場所だ。試験会場に行ったら、もう試験が始まってた。遅れちゃったけど、受けさせてくれた。優雅なもんだった。当局はとにかく運転士を増やしたかったんだろうな。国語は本を読んでいたから、どうってことないけど、数学は速度の出し方なんか難しかった。何だかさっぱり分からねえ。勝手に思ったこと書いたんだ。合格しないと思ってたけど、合格通知が来た。

 運転士科は東京・国分寺の中央鉄道学園にあった。正式には普通課運転士科といって、六か月の間は缶詰状態になる。日曜日は帰れるけれど。

 俺は昭和三十七年一月十日に入所した。前年の十二月二十二日に次女の文子が生まれてまだ二週間。三歳の長女の広子はいるし、女房は生んだばかりで動けない。そんな状態だったから俺は現場当局に「女房が動けるようになるまで家から通わせれば、入所してもいい」と言った。「ちょっと待て」と当局。学園と折衝したんじゃないかな。「それでもいい」ということになって入所が決まった。

 家から学園のある国分寺まで二時間以上かかった。杉田から横浜に出て東京から中央線で国分寺へ。まだ寒い冬だった。社宅の共同炊事場で食いもの作って、子どもや女房に食わせる。俺は食ってる暇がねえから、朝飯のおにぎりを作って通った。行くと授業開始時間ぎりぎり。「先生、悪いけど朝飯食わしてくれ」って授業中に食べた。学園始まって以来だって、授業中に飯食った奴は。

 一クラス三十人くらいで、十人くらいが三十歳代の機関区出身だったかな。電車区出身は、電車が好きで国鉄に入ってくる人が多い。機関区の庫内手と同じで、毎日電車の掃除をやっている。だから、電車の機器のこともよく知ってる人間が入ってきた。若い奴らばかりでやる気十分だった。

   (国労闘争団員)

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