2002年09月27日発行756号

【戦争被害第三次調査団 アフガン現地同行記<1> 乾いた大地に苦渋の子ども】

 国際法に違反してアフガニスタンへの武力攻撃を続けるブッシュ米大統領の行為を戦争犯罪として裁く国際民衆法廷が呼びかけられて約半年。十月五、六日には民衆法廷実現へのスタート集会が開かれる。九月上旬にはアフガニスタン戦争被害第三次調査団がアフガン現地に入っての調査を行った。民衆法廷の提唱者・前田朗東京造形大学教授が率いる調査団に同行した。(勝井)

 三月実施の第一次調査団、七月末の第二次調査団はいずれもパキスタンのアフガン難民キャンプを訪れての被害調査だった。カイバル峠や国境の町・トルカムからアフガンを望むのが精一杯だった。

トルカム国境(パキスタン側)
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 第三次調査団がついに国境を越えアフガニスタンに入ったのは、九月三日午後のことだった。

 念願のアフガン入りだったが、トルカム国境でまず目の前に飛び込んできたのは、背中に重い荷物をかついでアフガン側からパキスタンに走りこむ子どもたちの姿だった。小さい子は五、六歳から十歳くらいの男女の子どもだ。背中の荷物は金属製品か鉄くずに見えた。明らかに自分の体重より重い荷物を持つ子もいる。それが、国境警備兵に何度も何度も追い払われながらも、すきを見つけては必死の形相で駆け込んでいく。荷物運びでいくばくかのお金を稼ぐのだろうけれども、そのあまりにも過酷な姿は、これから訪れるアフガン民衆の姿を暗示しているようだった。

 荷物の正体はすぐに分かった。国境をこえたアフガン側には自動車部品や鉄くずの市場(バザール)がずらりと並んでいた。その中には戦車や装甲車の残がい、米軍が投下した砲弾や銃弾の破片も含まれているという。

デコボコ道の幹線道路

 その日のうちに首都カブールまで行くものだと思っていたら、夕方五時にガイドは「今日はジャララバードに泊まる」と言い出した。しかも「翌朝は四時出発でどうか」とも。「早すぎる」と七時出発にしてもらったが、ガイドが四時出発に固執した理由がすぐに納得できた。

 ジャララバードから三十分走ったところから、道路がデコボコ道と変わったのだ。この道はアフガンの幹線道路であり、カラコルム・ハイウェーと連なるアジア・ハイウェーと呼ばれる中央アジアを貫く大動脈道路の一部のはずなのだ。それが舗装部分はなくなり、砲弾による穴、石ころや瓦礫だらけの道と変わり果て、延々と続く。車のスピードはせいぜい十キロから十五キロののろのろ。運転手が語る。「ソ連との戦争時代に破壊され、それ以来一度も補修されていない。新車でもこの道を三、四か月走れば廃車ですよ」。

砂ぼこりの中を路上に立つ少年
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 二十年以上にわたり荒れに荒れ果てた道路上で、またしても子どもたちに出会った。砂ぼこりにまみれながら、道路の穴を補修してはドライバーにチップをねだる少年たちが次から次と現れるのだ。チップがもらえなければ、ふりきられるまで車と併走する子もいる。その表情は、パキスタンの難民キャンプで出会った子どもたちの天真爛漫な笑顔とは全く無縁の悲壮感でいっぱいだ。

「ロバ」でカブールへ

 荒涼さは道路だけではない。沿道の風景も荒涼そのものだ。四千メートル級の山が連なるはるかかなたまで荒れ果てた大地が続いている。明らかに畑だと思われるところにも耕作物はない。アフガンの農村では、耕作面積は所有する土地の広さではなく確保できる水の量で決まるという。地雷や爆撃での破壊に加えて、干ばつと砂漠化による環境悪化が豊かな大地を荒れた大地に変えてしまった。

 パキスタンはモンスーン(季節風)の時期で雨が降っていたが、山脈を越えたアフガンは滞在中すべて快晴で、雲ひとつ見ることがなかった。雲をつくる水蒸気が一滴もないほど乾ききった大地なのだ。

 急しゅんなマイパー峠を登りきると、広大な盆地の底に広がるカブールが見えてくる。しかし、ほこりが層となって上空を覆い、市内はおぼろげにしか見えなかった。

兵器の残がいがそのまま残る
荒れたアフガンの大地
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 結局、ジャララバードからの約百五十キロを八時間、揺られに揺られて首都に到着した。「『ロバ』に乗って、ようこそカブールへ」の冗談の声に迎えられて。

 パキスタン国境から陸路二日がかりでのカブール入り。その道中で見て感じたアフガンの印象は、荒廃した国土と疲弊しきった民衆だった。「もっとも貧しいアフガンをもっとも豊かなアメリカが攻撃したのが、アフガン戦争だ」と前田朗教授は指摘する。その実態は、その後のカブール市内で空爆被害者から直接聞くことになる。(続く)

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