2002年10月11日発行758号

【アフガン現地同行記<3> 迫害の証拠証言を粘り強く再確認 ほんとうだった住民全員の避難】

 戦争被害調査は、アフガン報復戦争の真相を広く伝えるとともに、民衆法廷での起訴事実を裏付ける証拠ともなる。第三次と回を重ねた調査団独自の被害調査も、今回アフガニスタン国内に入ることでその正確さを高めることができた。(勝井)


地雷原には戦車の残がいが
(カラバーへの道)
写真:一面下草が生え荒れ果てた野原に転覆した戦車が放置されている

 九月六日、調査団はカブールから北へ約三十キロのカラバーの村に向かった。

 主な目的は、三月に実施した第一次調査の聞き取り事実の確認のためである。第一次からずっとお世話になっている「アフガン難民を支える会(SORA)」の督永忠子さんが絶えず口にするのは、「難民が語る証言は必ずしも真実を語っているとは限らない。とくに人前で話を聞くときや通訳を入れたときは、なかなか本音を語らないもの。真実を知るには、現地の言葉を覚えて一対一で聞くのが一番」だ。

 三月の調査は、パキスタンのコトカイ難民キャンプ内で、まわりを他人が取り囲む中での聞き取りだった。しかも、通訳はパキスタン人。法廷への資料としては証言の確認作業が必要だ。

瓦礫の家
写真:積み重なった石ころの前でたたずむ子ども

 聞き取りした四人のうち三人は大都市のカブールやジャララバード出身。残る一人のバダム・グルさんの出身がカラバーだった。できればバダムさんと再会できることを期待して、私たちはカラバーに出発した。

手がかりは写真一枚

 カブールからカラバーへの途上には、破壊されたままの戦車や兵器の残がいが放置され、地雷未処理の地雷原がつづく。タリバンと北部同盟の武力衝突の最前線であったため、家も畑も銃撃や戦車によって破壊されたままだ。かつてはぶどう畑の広がる美しい一帯だったというが、現在耕作物は何ひとつ見ることができない。農業をしていたバダムさんはまだ帰っていないのではないか、との思いが頭をよぎる。

 到着したカラバーは、国道沿いに市場(バザール)が立ち並ぶ予想に反した大きな町だった。聞けば人口は約八万人とも。小さな農村だと思っていた私たちの手がかりは、バダムさんの写真一枚だけ。住所も知らない。

 「医者のバダム・グルを知っている」という人にバザールで出会ったが、写真を見せると別人だった。「米軍の空爆後、住民全員が避難した」との証言も注目していたが、「そんなことはない」の返事。落胆する私たちを見て、米軍が破壊したモスク(教会)を案内してくれた。

 前田朗東京造形大学教授が証言内容を思い出す。「バダムさんは、かつてタリバンの施設だったところが今は医療センターになっていると言っていた。そういうところはあるか」「それならある」「そこを見たい」。

 医療センターは「国際医療病院」の名で、国連とドイツの援助で運営されていた。せめてもと記念写真を撮っていると、後ろの方が騒がしくなった。住民が何事かと集まり始めたのだ。事情を話しバダムさんの写真を見せると、一人の男性が声をあげた、「このバダム・グルを知っている。二日前にバザールで彼を見た」。

国際医療病院の前に立つルッフラーさん
写真:門前での記念写真

 バダム・グルさんはカラバーに帰っていたのだ。いまは運転手をしているので、家にはいないから、会えないとのことだった。

爆撃で全員が逃げた

 カラバーには五十ほど地区がある。ここは中心部に近いトミラ地区という。十八歳のルッフラーさんが英語でトミラ地区の状況を語ってくれた。

 「ここには約二千家族、一万人が住んでいた。パシュトゥン人もタジク人もいた。医療病院の場所には以前はタリバン基地だったため、激しい爆撃を受けた。十月八日か九日だ。死者はでなかったが、けが人は多数出た。そこですべての住民が逃げ出した。約二千人は北のパンシール渓谷に逃げた。すべて徒歩で二十四時間かかった。荷物が多すぎて、赤ん坊を谷に落とした人もいた。残りはカブールを経てパキスタンへ逃げた。カブールまでは徒歩で二十四時間、あとは車でジャララバードを経てパキスタンだ。トミラ地区の人々が帰ってきたのは、三、四か月前のことだ」。

 バダム・グルさんの証言はほとんど事実であることが確認できた。同時に、米軍の爆撃が地区住民全員の難民化を生み出すという人道に対する罪としての迫害の事実も明らかになった。出発地であるカラバーでの証言と到着地であるパキスタンの難民キャンプでの証言が、ひとつにつながったのだ。

ホームページに戻る
Copyright FLAG of UNITY