この九月一杯、同居人から厳しく言い渡されて暑中休暇を完全にとった。文字通り蟄居(ちっきょ)謹慎、出前噺を始めてから手術、入院を除いてひと月丸々休んだのは今回が初である。
「小人閑居して不善を為す」というが、八十八歳その元気もない。ただ茫然と貴重な時間を過ごしてしまった。あまりしつけないことはするものではないという標本みたいな話だ。
そんなわけで十月一日、雀躍(じゃくやく)して大阪へ出た。もっとも日帰りで、軽いトレーニング風である。
行先は大阪高裁大法廷、或る公判が開かれている。「神坂直樹任官拒否控訴審」である。
裁判官志望の青年が司法試験も研修も抜群の成績で通ったのに、いざ任官の段階で拒否された。思想信条の理由ではないと相手方が自ら証言している。では何だと訊(き)くとそれは言わない。任命権者は最高裁事務総長だから、司法の大本山相手の訴訟になった。彼も一歩も引かない。
私は彼の両親を知っている。
一九八二年三月二十四日、大阪地裁は「箕面忠魂碑訴訟原告勝利判決」を下した。戦後司法史上画期的な判決である。その年の六・一五に東京の「声なき声」で鶴見俊輔氏から「大阪にスゴイ奥さんが居ますよ、会っては如何ですか」と紹介されて以来の付合いだから満二十年になる。その時初めて会った原告夫人達が、さぞかし猛女だろうナァと思っていたのに、その辺の市場で買物籠提げてるごく普通の中年女性たちだったのに二度吃驚(びっく)りの態だった。実はそれだから一層スゴイと言えるのだが。
忠魂碑の方は二審三審で引っ繰り返されたが、一審勝利の事実は厳然と残っている。司法健在の証しとして今日の不様な後輩裁判官たちの良心を刺激しつつある。歴史上の事実とは総てそういうものなのである。
その原告方との初の面会の日、神坂さん宅の奥で黒く大きな生きものが動いているのに気づいた。流石(さすが)に箕面だナァ熊飼ってるのかと思ったがそれが子息の高校生直樹君だったという訳だ。
以来支援の仲間入りをして今日に至ったが、両親の忠魂碑は終わったが、その闘志は次世代に引き継がれて健在である。
私自身の戦後史も実はこの箕面忠魂碑との出会いで人心地をとり戻したといえよう。この人たちとの出会いがなければ、「第二貧乏」の思い出も取り戻せなかったし、市民運動も即位礼違憲訴訟も国労も、そして戦争出前噺とも無縁の人生だったろう。心からの感謝とより他に言い様はない。
(「わんぱく通信」編集長)