昨年の9・11テロ事件 以降、「テロとの戦争は正義の戦い」という単純な善悪二元論が国際政治の場でまかり通るようになった。米国の報復戦争にもろ手をあげて賛同した日本にいると、なおさらそう感じてしまう。では、世界の人々は9・11をどのようにとらえているのか。今回紹介する映画『セプテンバー11 / 11’09”01』のテーマはここにある。
「自爆テロ」の背景
「これはアメリカだけの戦いではない。世界の戦いであり、文明の戦いだ」――アフガニスタンへの軍事侵攻に際し、ブッシュ米大統領はこう訴えた。テロリストは「邪悪な敵」であり、その討伐作戦は「無限の正義」にもとづいている、というわけだ。
確かに、多くの人命を一瞬にして奪ったテロ行為は卑劣な犯罪である。だが、あの事件を「突然の災厄」と言い切れるのか。ニューヨーク市民を襲った悲劇は、同じ世界同じ時代の貧困・差別・戦争とは無関係なのか。そうではあるまい。9・11事件の意味は、世界史的な観点からとらえないとみえてこない。
これは『セプテンバー11』の十一作品に共通した視点である。このオムニバス映画は、世界十一か国の映画監督が9・11を主題に11分9秒1の短編を競作したもの。日本でも事件一周年の九月十一日にテレビ放送されたので、ご覧になった方も多いと思う。
印象に残る作品をいくつか紹介しよう。ユーセフ・シャヒーン監督(エジプト)の作品は、米海兵隊員の霊と監督との対話という形式をとっている。パレスチナ人の自爆テロで死んだこの隊員を、監督は実行犯の両親と引き合わせる。そこで語られたのは、パレスチナ民衆に対するイスラエルの暴力、それを後押しする米国政府への怒りだった。
「国益を守るためだ」と言う海兵隊員に、監督は言い放つ。「その代償は誰が払う! 常に他の国だ。尊い命を犠牲にしたのは君だけか? 他の者は死んで当然なのか。愚かな悪循環が起きている」
「自由の敵」は誰か
ケン・ローチ監督(イギリス)も、米国の「自由と民主主義」に疑問を投げかける。登場するのはロンドン在住の亡命チリ人。彼はニューヨークのテロ事件犠牲者家族に手紙を書く。「私はあなた方と共通点を持っています。私の愛する者たちも殺されました。それは九月十一日、同じく火曜日のことでした」
そう、テロ事件から二十八年前の一九七三年九月十一日は、チリのアジェンデ政権が軍部のクーデターによって倒された日である。クーデターは米国が仕組んだ国家転覆計画であった。民衆の支持のもと資源企業の国有化などを進めたアジェンデ政権を、米国は武力でつぶしたのだ。
大統領府を戦闘機が爆撃する当時のニュース映像に、ブッシュ大統領の「自由の敵はわれわれに戦争を仕掛けた」という演説が重なる。「自由の敵」の名は、世界各地で国家テロを行ってきた米国にこそふさわしい。
「自由の敵」の本性は、自国民に対しても発揮される。テロ事件以降顕著になったアラブ系・イスラム教徒に対する迫害がそれだ。ミラ・ナイール監督(インド)の作品は、息子をテロリスト呼ばわりされたパキスタン系移民の悲劇(実話)を題材に、米国社会における排外主義のまん延に警鐘を鳴らしている。
笑いに包んだ告発
「重苦しい話は苦手」という方には、アフリカ・ブルキナファソのイドリッサ・ウェドラオゴ監督作品をお勧めする。主人公の少年は貧しくて学費が払えず、病気の母親に満足な治療も受けさせられないでいた。
そんな少年に一攫千金のチャンスが転がり込んでくる。二千五百万ドルの賞金首ウサマ・ビンラディン(に似たアラブ人)を街角で見つけたのだ。捕まえれば、母親の薬代どころか国中の貧しい人々を救える大金が手に入る。少年は仲間と一緒にビンラディン捕獲作戦を試みる。
だが、大人には相手にされず、ビンラディン(?)は飛行機でどこかに行ってしまう。涙にくれる少年たち。「ビンラディン戻ってきて。あなたが必要なんだ」というセリフが最高におかしい。
米国の繁栄=グローバル資本主義を守るために巨額の軍事費が投入される一方で、飢えや貧困が放置されている。そうした現代社会の歪みを、この作品は「笑い」に包んで告発している。
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アフガニスタンへの軍事侵攻から一年。ブッシュ政権はイラク侵略の準備を進めている。「悪の枢軸」なる論法が米国の戦争宣伝にすぎないことは、本作品をみればわかっていただけると思う。多くの人がみて、考えてほしい映画である。 (O)
・上映に関する問い合わせは、 東北新社(03-5414-0333) まで。