ロゴ:生きる 佐久間忠夫 2003年01月03日発行770号

第67回『人材活用センター配属』

 一九八六(昭和六十一)年七月六日、新鶴見人材活用センター(人活センター)への配属発令が出された。弁天橋では最初は六人だったかな。俺と元分会長の寺内、事務の永瀬ら。

 助役に連れられて電車で人活センターがある新鶴見貨車区に行く途中、川崎でお茶を飲んだ。助役が「好きなもの飲んで下さい」と変に気を使う。「好きならビールでも酒でもいいのか」って聞くと「どうぞ、どうぞ」。「バカヤロウ」と怒鳴ったのを記憶してる。

 南武線の鹿島田駅で下りて工場跡地の高層ビルの中を通って行く。人活センターに着いての第一印象は、ひでえところに来たなぁという感じ。他に新鶴見機関区の威勢のいい藍とか岡本。新鶴見貨車区や東神奈川電車区から二十二人が集められていた。他の職場とは交流はなかったが、それでも「ヤァー」ってあいさつしたな。藍は横浜機関区の時に親父に世話になっていて子どもの頃を知ってた。

 人活センターの建物は、一階は何も使ってない。二階の左側が管理者の詰め所、右側が俺らの詰め所になっていて、真ん中に階段があった。詰め所は三〜四十人が入れるほど広かった。もう一つ反対側に階段があったけど、わざわざ出られないように遮断して仕切ってあった。出入を絶えず監視しやすいように階段を一つにしたんだ。

 仕事は四班くらいに分かれていて、一班が貨車解体で、後が銘板磨きや草刈りなど受け持った。

 朝点呼はびっくりした。俺らより管理者の方が多く、三十人くらいいるわけ。

 初日に、お互いにまとまろうという話が出て体制を作ることになった。「佐久間さん、分会長やってたんだから代表やって」。藍が事務局長になった。

 階段が一つしかない施設は、防犯上も安全衛生上も建築基準法上もおかしい。階段で火事が起きたら逃げる所がない。電話もない。解体や銘板磨きをやるから汚れるのに、下にある洗濯機は壊れている。まずそこから、みんなで要求項目を出そうと始まった。鉄道電話を入れろ、公衆電話を入れろ、洗濯石鹸をよこせ、階段を通せって。

 人活センターに行ったのは活動家とよく言われるけど、そうじゃなかった。活動家は半数くらい。うちの事務の永瀬なんておとなしい奴だし、俺の一年先輩で新鶴見機関区のボイラーマンなんて役員でもない。ただ、当局の言うことをきかない人間が多かった。どんな仕事でもそうだけど、鉄道員も仕事ができると言いたいことも言うわけよ。助役に対してもおかしいって。そんな人たちが集まっていたんだ。

   (国労闘争団員)

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