2003年03月28日発行781号

【第5次アフガン戦争被害調査 クンドゥズ・マザリシャリフを訪れて(1) 小さな農村に大きな墓 消えることない米軍の戦争犯罪】

 イラク攻撃を止める運動の高揚の中、アフガニスタンへの関心は低下している。しかし、違法なイラク攻撃を阻止するためにも、米軍がアフガンで行った戦争犯罪を明らかにすることは重要だ。第五次アフガン戦争被害調査団(団長・前田朗東京造形大学教授)の一員として、二月下旬よりアフガン北部のクンドゥズ、マザリシャリフを訪れた。(K)


 三月三日に調査団は、北はタジキスタンと国境を接するクンドゥズ州のナワバド・チョーガという小さな村にたどり着いた。

11人の墓の前で聞き取り調査(3月3日・ナワバド・チョーガ村)
写真:10メートル四方ほどの低い土塀の囲みの中には戦争犠牲者の墓をあらわす緑の旗が立つ。

 その道のりは長かった。クンドゥズ州はカブールから北に約三百キロのところだが、途中には六千メートル級の山が連なるヒンズークシ山脈を越えなければならない。通路のサロン峠でも三千メートル級で、吹雪とブリザードの中を雪崩と転落の危険を感じながらの通過だった。

 州都クンドゥズ市への道は穴ぼこだらけの道で、二時間余り車の中で揺られっぱなしで到着した。車よりも馬車やロバが主な運搬手段という農村地帯のクンドゥズ市から東にあるカナバードという町を通過して、さらに東に進んだところで車を降りた。そこから畑のあぜ道を歩くこと十五分、降雨と雪解け水が激流と化した赤茶色の小川を飛び越えたところが、ナワバド・チョーガ村だった。

11人の遺体を埋葬

 車でもたどり着けない丘のふもとの百軒ばかりのナワバド・チョーガ村にも、米軍による戦争犯罪の傷跡はくっきりと残っていた。

 村に入って眼に飛び込んできたのは、緑の旗がはためく大きな墓だった。土壁で囲まれた墓には、米軍の爆撃で死亡した十一人の遺体が埋葬されている。

 米軍は二〇〇一年十一月のラマダン(断食月)が始まる一日前に、一トン爆弾二発をこの村に落とした。

 ビビ・アイシアさん(70歳)は、息子夫妻と五歳と三歳の孫を亡くした。「死んだのは五人だ」とアイシアさんは言う。そこには八か月半だった胎児も含まれている。

 悲しい出来事を思い出させてしまったのか、聞き取り後アイシアさんは路上に座り込んでしまって、しばらく動くことはなかった。

母親をなくしたナイム・カーンくん
写真:少年の写真

 墓の前が爆撃の破壊跡だ。集まってきた村の子どもたちが破壊跡で無邪気に遊ぶ中に、にこりともしない少年が一人いるのに気がついた。

 ナイム・カーンくん(16歳)で、爆撃で母親を亡くした。父と妹一人が生き残ったが、父は病気で働くことができないので、彼が働いている。「仕事は」と聞くと、答えは「デイリー・ワーカー」。破壊の上に破壊を積み重ねたこの国で少年が定職を持つことは困難に違いない。日雇いの仕事で家計を支える厳しさが少年の顔ににじみ出ていた。

 この村でのもう一人の被害者は、いまは別の町に住んでいた。

生き残ったのは一人

7人の家族全員が殺され、彼一人生き残ったエスマイルさん
写真:7人の家族全員が殺され、彼一人生き残ったエスマイルさん

 通過した町・カナバードの公衆浴場で働くエスマイルさん(35歳)だ。

 ナワバド・チョーガに住んでいたエスマイルさんは七人の家族を失った。同じ部屋にいた母親、二人の妹と一人の弟、妻と二人の子どもが爆撃で殺された。彼は別の部屋にいて助かったが、家族の全員を失い、生き残ったのは彼だけだった。

 「将来は村に戻りたいし、再婚もしたいと思っている。しかし、今は全く見込みがない。No Planだ」。エスマイルさんは公衆浴場で働き、夜もそこで寝泊りする日々を続けている。

 タリバンが北部同盟と対峙していた前線から離れた小さな農村。そこを襲った爆撃の被害者も、ほとんどが女性と子どもだった。そして、生き残った被害者家族にも生活苦が襲っている。

 この米軍の戦争犯罪は必ず裁かれなければならない。(続く)

ホームページに戻る
Copyright FLAG of UNITY