2003年04月11日発行783号

【アフガン第5次調査 / クンドゥズ・マザリシャリフを訪ねて(3) / 「誤爆」でなく計画された空爆 / 民間人虐殺から捕虜虐殺へ】

 米英軍のイラク空爆で多くの民間人が殺されている。しかも、攻撃を指揮する米中央軍のフランクス司令官は「民間人被害は計画の範囲内」と公言してはばからない。今回調査したアフガン空爆での民間人被害も、「誤爆」などでは決してない、最初から計画された戦争犯罪だった。(K)


モフデハシム地区の被害者家族(左からラーマトラーさん、アブドル・ハミドさん、グル・アガさん)
写真:雪の中で立ちすく老人一人と壮年の男性二人、そして少年が三人と幼児が一人

 国際法違反の民間人攻撃が意図的に行われたことは、一定の地域を集中的に調査することで明らかになった。

 クンドゥズ州では、州都クンドゥズの東、カナバード市内から調査を開始した。

 カナバード市の南東部の住宅地モフテハシム地区では、二十二人もの民間人が殺された。雪が降りしきる空爆の破壊跡に住民が集まってくれた。その中に三人の被害者がいた。

 妻子五人が殺されたアブドル・ハミドさん、娘夫妻や孫など七人を亡くしたラーマトラーさん、二人の子どもが殺害されたグル・アガさんだ。

 破壊跡から村の背後に小高い丘が見える。直線距離でも一キロほど離れた場所だ。住民に聞くと「頂上の黒く見えるところに、タリバン兵の陣地があった」と言う。しかし、米軍の空爆時には、タリバン兵は陣地を離れ東に十キロの最前線に集結していたという。

避難先で被害

 調査地点はモフテハシム地区から順に東に移動した。

 前回報告したシーミーンちゃんとアブドル・ラシードくんがクラスター爆弾で大けがをしたデ・ワイロン村、家族十六人が殺されたアメナちゃんの家があったアーハムガラン村、そして一番東端の十一人の遺体を埋葬した墓が目立つナワバド・チョーガ村。どの村でもタリバンとの関係を聞いたが、「村にはタリバン兵はいなかった。タリバンの陣地は南の丘にあったが、そのとき兵士はすべて前線に移動していた」が一致した答えだった。

 タリバンの動きを証言してくれる人が出てきた。サレー・モハマドさん(50歳)だ。

 サレーさんはサレドラ村に住んでいた。当時タリバンと北部同盟が対峙する数少ない前線の一つが、サレドラ村のすぐ近くだった。タリバン兵が多数集まり始めたので、約六百軒の村人全員が避難をはじめた。

家族を失った無念さでいっぱいのサレー・モハマドさん
写真:深いしわが刻まれた伏し目がちのサレーさんの顔写真

 サレーさん家族も村から逃げ、一時しのぎの避難先として選んだのがモフテハシム地区だった。前線から十キロも離れて一息ついたところを襲ったのが、米軍の空爆だった。母親と妻、五人の娘、一人の息子の計八人が犠牲となってしまった。

 証言をするサレーさんの顔には五十歳とは思えぬほど深いしわが刻まれ、その表情は避難先で家族を失った無念さでいっぱいだった。

意図された民間人攻撃

 実際に爆弾が落とされた四か所を見て歩いて気づくことがあった。どこでも見事なほど村の中心部が爆撃されていることだ。「誤爆」という表現には、タリバンの陣地を狙った弾がそれてしまったというイメージを呼び起こす。しかし、ここでの爆撃は「誤爆」などというものではない。最初から狙った標的が民間人なのだ。

 四か所への爆撃が二〇〇一年十一月中旬の一週間以内に集中しているのも特徴だ。実は、米軍はこの時期、前線に集結するタリバン包囲網を完成し、降伏・投降のための猛爆を行っていたのだ。

 タリバン兵が市民の中に身を隠すのを防ぐために民間地域にも爆撃を加え、死の恐怖を与えるためにも大量の死体が必要だったのだ。そのための犠牲になったのが、民間人だ。調査団が調べただけでも、この地域での民間人死亡者は六十五人にのぼる。

 民間人をまきこんだ猛爆の結果、タリバン兵全員が投降した。しかし、投降し捕虜となったタリバン兵を待っていたのは、無残な死だけだった。

 ジェイミー・ドーラン製作のドキュメンタリー『アフガン大虐殺−死の護送』(四月六日の京都公聴会で日本初公開)には、このクンドゥズで投降したタリバン兵三千人がマザリシャリフに移送中のコンテナ内で窒息死などで大虐殺されたことが明らかにされている。

 クンドゥズ・マザリシャリフは民間人虐殺と捕虜虐殺という二重の戦争犯罪が行われた地だった。(続く)

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