今回の第六次調査は、アフガニスタン国際戦犯民衆法廷(ICTA)の共同代表となったRAWA(アフガニスタン女性革命協会)の協力の下に実施された。パキスタンに暮らさざるをえないアフガン難民の今を知ることは、RAWAが果たしている役割を知ることでもあった。(勝井)
狭い敷地に約800人が通う学校(ペシャワール)
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パキスタンのアフガン難民の現状を知るために今回訪れた難民キャンプや学校、孤児院は、すべてRAWAが運営するかサポートしているところだった。
RAWAはアフガンにおける政教分離の民主主義、社会正義、女性の解放の三つの目標をめざす政治組織だ。しかし、アフガニスタン国内ではいまだに「銃による支配」がまかり通っているために活動は制限され、パキスタン内のアフガン人を対象にした取り組みに現在の活動の重点がある。
二月の兵庫公聴会に参加したRAWA広報担当のサハル・サバさんは次のように語った。「アフガンの人々にまず必要なのは精神的なリハビリテーションです。流血と銃、殺人しか見てこなかった私たちの世代は心に深く傷を負っています。教育や医療サービスの提供を通して、平和を望む心、民主主義を求める心を育んでいかねばなりません」。
今回の調査は、この言葉を痛感する場となった。
学校の建物は粗末でも
教室は粗末でも輝く笑顔を見せる生徒たち
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ペシャワール市街地の目抜き通りの商店の裏側に学校はあった。
学校といっても、建物は普通の民家を改造した粗末なもの。物置小屋と間違うような隙間だらけの板張り教室だ。教室内はイスだけで机がない。電気はなく窓や隙間からの明かりが頼りだ。
ここに日本の小・中・高にあたる一年生から十二年生まで約八百人が学んでいる。生徒たちはみんな輝くばかりの笑顔と瞳を見せていた。
建物は粗末でも教育レベルが高く授業料も無料なので、希望者はいくらもいるが、人数的に限界にきている。
この学校では、生徒の下校後に識字学級が開かれていた。十一人の母親たちが学んでいた。アフガン難民の女性の識字率は五%未満だ。
母親たちに聞いてみた。
「夕食や家事はどうしていますか」−「十三歳になる娘が見てくれています」。
「学級にくるのを夫はどう思っていますか」−「もちろん、夫も喜んでくれています。そうでなければこられません」。
戦災孤児の心の傷
RAWAが一番最初に私たちを案内してくれた施設が孤児院だった。
歌で歓迎してくれた戦争で親を亡くした孤児たち
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到着するや、子どもたちは花束の贈呈から歌やダンスで私たちを歓迎してくれた。その愛くるしい表情に、この子たちが内戦や空爆で親を亡くした戦災孤児であるとは、とても思えなかった。
四歳から十六歳までの三十五人中、米軍の空爆で親が殺された子が十人いた。
その一人に質問した。
「名前は」−「ロビーナ」。「年齢は」−「十二歳」。「どこの出身」−「クナール州」。ここまでは順調だった。次の質問がよくなかった。「家族は何人だったの」の問いに、その子は沈黙。しばらくうつむいていたが、突然先生の胸に寄りすがって泣き始めた。今まで忘れていたのに、この質問で死んだ親を思い出してしまったのだ。
目に見えない被害
戦争で死傷したものだけが戦争被害者ではない。生き残った者や遺族も戦争被害者だ。空爆の衝撃や肉親を亡くしたショックは、体験した者でないと分からないのかもしれない。この間の調査でもトラウマや精神的疾患で悩む被害者と出会った。目には見えない戦争被害をも理解する想像力が必要だ。イラクでも使いアフガンでも米軍が使ったという劣化ウランの放射能汚染も目には見えない。
とことん被害者の立場に立った戦争犯罪追及の取り組みが求められている。(終)