2003年06月13日発行792号 ロゴ:占領下のイラクを行く イラク戦争被害調査 豊田 護

第1回 動くものは何でも撃った米軍

 米英軍によるイラク爆撃は七千人もの市民を虐殺した。フォト・ジャーナリスト広河隆一さんをリーダーとするイラク戦争被害調査チームは、五月十三日から三十日にかけイラク各地を訪れ、犠牲者の遺族・関係者から証言を集めた。戦禍はいたるところに残されていた。断水・停電、破壊された家、治安悪化。米英軍の占領は、断じて”解放”などではない。人々の怒りの声を紹介する。(豊田 護)


写真:

子どもを狙い撃ち

 「いとこや兄弟の家族といっしょに避難しようと、貨物トラックで街の出口にさしかかった時だった。攻撃ヘリからミサイルの攻撃を受けた」。イラク南部の都市ナシリヤが、三月三十一日に米軍の攻撃を受けたとき、一体何があったのか。カリールさん(44歳)は家族・親類に起こった悲劇を語ってくれた。「六人の子どもを含む十四人が死んだ。三人が重傷を負った。体がばらばらに飛び散った」

 同じ車に乗っていたムアイドさんが付け加える。「最初の攻撃で、助手席の女たちがやられた。荷台の子どもたちは大丈夫だった。だが、車が止まって、荷台から降りたところを地上にいた兵士に撃ち殺された」

イラクを占領する米軍(バグダッド)
写真:軍用車両と三人の兵士。手前には有刺鉄線の障壁

 近くにイラク兵の姿はなかった。ヘリのパイロットからは、貨物トラックの様子は十分わかったはずだという。当然、地上兵は子どもたちの姿を確認して機関銃を撃った。

 これまで、米軍は市民に犠牲が出た場合「誤爆」と言い訳してきた。「市民の犠牲を最小限に抑えるよう努力している」と取りつくろう。あくまで軍事施設や兵士に対する攻撃であり、まきぞえを食った民間人は運が悪かったというわけだ。

 実態はどうか。この証言であきらかだ。”動くものは何でも撃つ”。殺人集団の確信的行為に間違いない。

 調査チームは、二週間あまりの間に南はクウェート国境から北はモスル・アルビルまで、ほぼイラク全土の主要都市を回った。犠牲者の遺族や病院関係者など合計九十人を上回る人々から、戦争被害の実態を聞き取った。

 そのつど、「なぜあなたの家族が攻撃されたと思うか」と聞いた。

 「近くをイラクのロケット輸送車が通ったようだ」「シリアからの義勇兵が隠れていた」との答えもあった。しかし、多くの答えは「近くに軍の施設もないのに、なぜ市民が狙われるのか、理由はわからない」だった。

 住宅地にクラスター爆弾を使い、にぎわう市場にミサイルを撃ち込んだ。どう考えても、米軍が言うように「市民に配慮」がされているわけがない。確実に犠牲者が出る。生活の場が破壊されたことは明らかだ。

爆撃で右足を切断した被害者(ナシリヤ)
写真:ベッドに横たわる被害者。カメラに向かって親指を立て微笑んでいる

「石油を奪いにきただけ」

 「わずかな蓄えも、治療費や薬代で消えてしまった。もう食べ物もない。仕事もない」

 犠牲者を出さなかった家庭にも、戦争のダメージが及んでいる。「爆撃で家も家具も、一瞬になくなってしまった」と、途方にくれる人は多い。

 南部の町では、給水車に集まる人々が多く見られた。電気も一日に何度か停電する。早朝から車の列が延々と続くのを見かけた。先頭を追えばガソリンスタンドに行き着く。販売される場所が限られているようだ。値段も高騰している。

 夜、銃声音で目がさめた。翌朝、泊まったホテルのカウンター越しに、マシンガンが見えた。

 今イラクの人々はそんな中で生活している。”安心して暮らしたい”―この最低限の願いが最大の願望となっている。

家族5人を爆撃で殺された被害者(シャトラ)
写真:焼け焦げたバスを前に厳しい表情でたたずむ男性

 カリールさんは、サダムとブッシュについてこう語る。「サダムは、多くの人々を弾圧した。だが、まだ仕事はあった。食べ物もあった。ブッシュは、多くの人を殺した。石油を奪いにきただけじゃないか」 (続)

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