マスコミで大きく取り上げられた鴻池発言。
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「加害者の親なんか、市中引き回しの上、打ち首にすればいい」。長崎市の幼児誘拐殺人事件に関する鴻池防災相の発言が波紋を広げている。人権感覚のかけらもない反動発言に批判の声が相次ぐ一方、「発言趣旨は理解できる」という意見も少なくない。脅威への抑止力として国家の暴力を肯定する−−これは戦争国家を正当化する論理ではないか。
鴻池発言の波紋
問題の打ち首発言は七月十一日、閣議後の記者会見でとびだした。発言の主は鴻池祥肇(よしただ)防災担当相。鴻池は政府の「青少年育成本部」副本部長でもある。
いわく「(少年犯罪の最優先課題は)親の責任だ。親や担当の先生、校長は全部前に出てくるべきだ。罪を犯した子どもの親は全部引きずり出すべきだと思っている。今の時代、厳しい罰則を作るべきだ。(加害者の)親なんか、市中引き回しの上、打ち首にすればいい」
発言が大きく報道され批判を浴びても、鴻池は反省するどころか「勧善懲悪。水戸黄門がいまだに流行っているのは、いいことをどんどん進め、悪いことを懲らしめるからだ」と開き直った。
時代劇ファンだという鴻池に問いたい。犯罪者の親を見せしめ的にさらし者にすることがどうして「勧善懲悪」になるのか。それは近代人権思想に逆行する野蛮なリンチである。ついでに言えば、テレビの水戸黄門はそんなことはしなかった。
大臣失格の暴言に対し、さすがに全国紙やニュース番組は非難の論調を打ち出した。だが、世論の反応をみると鴻池支持の意見も少なくない。鴻池事務所には、その日のうちに一千通を超えるメールが殺到。八割が発言内容を支持するものだったという。
インターネット上の投票では、「失言だが、その思いはわかる」38%、「まったく問題なし」50%と、発言容認・支持の意見が九割近くに達した(VOTEジャパン・7/19現在)。掲示板への書き込みをみても、「多少過激だが、考え方は十分わかる」「加害者の人権は被害者の五分の一でいい」等々、鴻池支持の意見が多数を占めている。
興味関心を持つ者が投票するというネット投票の特性からして、その結果をただちに国民世論と判断するわけにはいかない。とはいえ、「犯罪加害者は厳罰に処すべき」という意見が幅広い支持を集めているのも事実なのだ。
政府の姿勢が誘発
この背景には市民の不安感がある。凶悪犯罪の低年齢化がセンセーショナルに報道され、しかも被害者の大半は幼い子どもである。子どもの安全を守るために「犯罪を厳しく取り締まるべきだ」と考えるのは無理はない。
問題にすべきは、市民の不安感を煽動する形で、犯罪抑止と称した基本的人権の制限を正当化する言説がまき散らかされていることである。
鴻池は自身のウェブサイトで「悪人の人権は後に廻せ」といった自説を得意げに披露している人物である。そういう輩が「青少年育成推進本部」の担当大臣として、少年犯罪対策の取りまとめにあたっている。打ち首発言は、厳罰化を求める世論の喚起を狙った意図的なものなのだ。
「国民の安全を守る」との名目で権力の肥大化を図るのは、古今東西を問わず国家権力の常套手段である。9・11事件以降、テロ対策を理由に市民的自由の制限がまかり通るようになった米国の事例は記憶に新しい。
テロ行為にせよ少年犯罪の「凶悪化」にせよ、市民にとっては得体の知れない恐怖だ。そうした不安を解消する手段を国家に白紙委任する。言い換えれば、抑止力として国家の暴力に期待する−−これは極めて危険な傾向である。国家による暴力が内に向かえば基本的人権の侵害に、外に向かえば侵略戦争を正当化する論理になるからだ。
朝鮮民主主義人民共和国に対する政府閣僚の挑発的言動、イラク出兵法案審議における武力行使を当然視する答弁、これらの言動と今回の打ち首発言は根っこの部分でつながっている。つまり、戦争国家の道を突き進む小泉内閣の暴力肯定体質が人権否定の暴言を誘発しているのである。
暴力では解決しない
「十代の心の闇」といった報道に日々接していると、出口の見えない不安ばかりが募ってしまう。それゆえ、暴力をより大きな暴力で封じ込めるという短絡的な発想に陥りやすい。しかし、暴力による抑止では事態の根本解決にはつながらない。少年犯罪の深刻化は、弱者切り捨てがまかり通る今日の社会状況がもたらしたものだからだ。
一国の首相が「殺す場合もないとはいえない」(イラク出兵法をめぐる小泉答弁)と平然と語る状況を放置している限り、全国の校長先生が「命を大切に」と呼びかけても子どもたちには空念仏としか聞こえないだろう。(M)