七月に第一回公判を開廷したアフガニスタン国際戦犯民衆法廷(ICTA)は、十二月の最終公判の成功へ取り組みを強めている。アフガン戦争被害調査も八月末から九月上旬にかけて第七次調査団を派遣した。主な目的は、最終公判に向けてブッシュの戦争犯罪を暴く証言のフォーローアップだ。(勝井)
子どもたちも無事
第一回公判には、アフガン現地から米軍の空爆で八人の家族を殺された被害者が来日し、貴重な証言を行った。
爆撃地から丘の上までの距離を測定
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「日本に来てアメリカの犯罪を証言したことがわかると本人や家族の生命の危険がある」との理由で、名前も姿も隠して「証人Aさん」と紹介された被害者だ。
第七次調査団には、この証人Aさんが無事に帰国したのか、その後の安否を確認することが問われていた。
九月六日、カブール市内のAさんの自宅に足を運んだ。次女が玄関口に姿を見せるやAさんや子どもたちが次々と笑顔で私たちを迎えてくれた。Aさんはトラブルもなくアフガンに帰国。残った五人の子どもたちも全員無事で、以前と変わらぬ質素な生活を続けていた。
高高度から空爆
Aさんは第一回公判で「近くにタリバンの基地があった」とだけ証言。基地についての詳細を語らなかったために、”基地があったのなら仕方がない”との印象を与えてしまった。
丘の上には対空砲の残骸が
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このタリバン基地がどのようなものであったのかを調べることも今回の調査の目的だった。
調査団は今回、GPS(衛星測位システム)やレーザー光線で距離を測定する望遠鏡を持参した。爆撃を受けた屋敷跡から丘の上の基地までの距離は、三百メートルだった。
次に丘の上の基地にも足を踏み入れた。
高さ五十メートルほどの小さな丘だが、頂上は細長い馬の背状だった。道幅はわずか十メートルほどで、地雷撤去未処理を表す白と赤で塗り分けた石が並んでいた。その路上にはさび付いた対空砲の残がいが二基放置されていた。他には三つばかりの土と泥でできた小屋の残がいがあるだけだった。「基地」と呼ぶにはあまりにも粗末で、「陣地」か「詰所」と呼ぶべき代物だ。
丘の南を眺めると、カブールでも比較的大きな病院が目の前に迫り、高級住宅地が隣接している。北の斜面は、Aさんたちが住む集落で、土と泥の家が並んでいる。つまり、病院や住宅地が立ち並ぶ一画に、対空砲が二基あっただけの場所なのだ。
爆撃を目撃した人が見つかった。Aさんの隣家のBさんで、爆撃で二人の子どもを亡くしている。日の出前の薄暗い早朝六時ころ、庭に出ていたBさんは、ジェット機のかすかな爆音を聞いた。「戦闘機の姿は見えませんでした。爆音からかなり上空を飛んでいたことは確かです。まさかあの飛行機が爆弾を落とすとは思ってもいませんでした。気がついたとき、私は瓦れきの下敷きになっていました」。
米軍は民間住宅地に被害が出ることを承知の上で、高高度からの空爆を繰り返していたのだ。