ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2003年10月24日発行810号

『アンリ・デュナンと赤十字(1)』

 1859年6月24日、北イタリアのミラノから東に100キロほど、ガルダ湖付近の田舎町ソルフェリーノで、アンリ・デュナンは戦争の悲惨を目の当たりにした。

 早くに海外進出を進めて植民地支配のうえに富を形成してきたスペイン、ポルトガル、オランダ、イギリスなどが国内においてもそれぞれ近代国家として発展していたのに比して、近代国家形成と植民地争奪戦に出遅れたドイツやイタリアは、この時期、神聖ローマ帝国から近代主権国家への再編の途を急いでいた。「明治維新」の日本がそれに続いたことはよく知られる。

 近代国家イタリアの創出にあたっての障害はハプスブルク・オーストリアの支配であった。そこでサルディニアのビクトリオ・エマヌエル2世は、ナポレオン3世率いるフランス軍の支援を受けて、フランツ・ヨーセフ皇帝のオーストリア軍に挑戦したのである。後にイタリア統一戦争と呼ばれる戦いがソルフェリーノの地を駆け抜けた。

 当時の戦争では、兵士は文字通り「駒」にすぎなかったから、負傷しても助けはほとんどなく、放置されるばかりであった。倒れ伏した味方を乗り越えて敵陣へと突入していく兵士。救護の手が差し伸べられたのはごく一部にとどまる。しかも救護班がいても、味方の兵士しか救護しない。戦場に放置された負傷兵は、救護も医薬品も食糧もなく、伝染病に冒されることになる。

 旅先でこうした悲惨な現実を前にしたデュナンは、カスティリオーネの村人に呼びかけて、放置された負傷兵の救護活動を始めた。

 故郷ジュネーヴに戻ったデュナンは、1862年11月、『ソルフェリーノの思い出』を出版した。戦場で負傷した兵士に関する人道問題を検討したデュナンは、国際救護団体を組織して、敵も味方も区別なく、負傷した兵士を救護すること、そして救護者に対しては双方とも攻撃してはならないことを訴えた。

 アンリ・デュナンは、1828年にジュネーヴに生まれた。スイスの由緒ある旧家出身の父親ジャン・ジャック・デュナンは実業家であり、スイス連邦政府の議員やジュネーヴの裁判官も経験している。母親アンヌ・アントワネットは、ジュネーヴ・ゼネラル病院長の娘であった。アンリ・デュナンは、名門校のコレージュ・ド・ジュネーヴに学びながら、地元のYWCAの創設にも加わったという。21歳でポール・ルラン・エ・ソーテ銀行に就職し、25歳の頃、アルジェリアに派遣されて製粉会社設立に携わった。

 31歳のときにソルフェリーノの戦いに遭遇したことから、デュナンの人生は激変した。事業家から赤十字への転進は、デュナンの後半生に空白をもたらすことになった。『ソルフェリーノの思い出』は、ジュネーヴはもとよりヨーロッパに大きな反響を呼んだ。そして、ジュネーヴ公益協会のギュスタヴ・モアニエ会長は、1863年2月の総会でデュナンの提案を採用し、国際救護団体問題を検討する五人委員会設立を決定した。

 1863年2月17日、ギュスタヴ・モアニエ(法律家)、アンリ・デュフール(将軍)、ルイ・アッピア(医学博士)、テオドル・モノワール(医学博士)、そしてデュナンからなる5人委員会の最初の会合が開かれた。この日が赤十字誕生の記念日とされている。

 赤十字思想を提唱し、その実現に向けて走り出したデュナンは、しかし、全財産をつぎ込んだあげく、39歳にして開発事業に失敗し、破産宣告を受け、ジュネーヴから逃れ、パリやロンドンで不遇の20年をすごすことになる。二度とジュネーヴに戻ることはなかった。

 (参考)北野進『赤十字のふるさと』(雄山閣)

 

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