2003年11月07日発行812号

占領下のイラク 今も続く戦争犯罪(6)

【ラク民衆がみた国連の姿 / 「国連は米国の道具だ」】

 イラク復興に関し、「米英軍ではなく国連主導で」といった声を聞くことがある。安保理は、十月十六日、多国籍軍派遣や復興などに関する決議をあげた。米軍占領当局の絶対的権限は変わらず、イラクの人々の手による再建の道は不透明なままだ。だが、国連主導であれば受け入れられるのか。国連の役割について現地ではどのように受けとめられているのだろうか。( 豊田 護 )


主導権は米国

 「国連は米国の意のままになる道具だというのがイラク人の見方だ」。七月からバグダッドで活動を始めたイラク占領監視センターの共同理事エマン・ハマスさんはそう語った。

笑顔の子どもたち。だが経済制裁が彼らの生活を圧迫してきた。
写真:子どもたちの写真。表情は明るい

 百数十万人もの命を奪ったといわれる十三年にわたる経済制裁は、国連の名で行われた。だが、主導権は米国の手にあった。石油と食糧との交換が許されてからも、米国による恣意的な運用に抗議して、国連の責任者が相次いで辞任する事件さえ起こった。

 そして今回の米英軍による戦闘行動を国連は止めなかった。「UNDP(国連開発計画)やUNICEF(国連児童基金)などは、イラク国民に役立つ仕事をしてきたが、戦争に向かう全体的な政治情勢の中に国連の姿はなかった。世界の国々を率いて強力で効果的な役割を果すべきだったのに、しなかった。戦後は、故デメロ国連特別代表は米国の指揮の下に活動していた」

 バグダッドのカナル・ホテルに陣取った国連事務所に爆弾攻撃が行われたのは八月十九日だった。反米抵抗運動が高まるイラクにあって、国連への攻撃は時間の問題だったのかもしれない。

 UNDPの事務所を訪ねてみた。パレスチナ・ホテルからチグリス川に沿って北へ一キロ足らずのところにある。昨年十二月、市民調査団(ジャミーラ高橋代表)が経済制裁解除の要請行動をしたところだ。二月には学生青年国際会議に参加した若者たち千人近くがデモを行った。

入り口をふさぐ壁

 よく覚えているはずの事務所だったが、直ぐには見つけられなかった。事務所の玄関をふさぐように二、三十メートル手前からコンクリートの壁がつくられていたからだ。

コンクリート壁に囲まれた国連開発計画の事務所
写真:

 「国連事務所はここから入るのか」。銃を構えて、壁際に立っていた男に聞いてみた。「誰だ。何しに来た」と逆に聞き返された。「日本のプレスだ。ここには入れないのか」。国連職員が出てきて言った。「申し訳ない。事情を察してほしい」。

 ごく最近、この事務所前で爆弾事件があったことを後で聞いた。

 UNDPは経済制裁下でも人道的な援助活動を行っていた。だが、破壊の限りを尽くした侵略軍を容認した国連の姿がある以上、イラク民衆にとっては何の慰めにもならないのだろう。

国民投票を望む

 「妻はUNDPで働いている。爆弾事件があったときはとても恐かったと言っていた」。身内がそんな目にあった通訳兼ガイド役のハルブさんは、国連について「米軍に引き連れられた子羊のようなものだ」と表現した。おとなしく連れ回されるばかりでなく、場合によっては生け贄にもされる。そんな気持ちも込められているのかもしれない。

 占領当局によってつくられたイラク統治評議会も同じだ。「統治評議会が真っ先に作った法律を知ってるか。二重・三重国籍を認める国籍法だ。二十五年前に国を出たチャラビなどが国籍をもてるようにしたのだ。サダム時代の苦しみを味わってない統治評議会のメンバーはイラク人ではない」と怒りの対象になっている。

 「全国民による投票によりこの国の姿を決めて行くことがまず第一だ」。力を込めて語るハルブさんの言葉が、イラクの人々の気持ちを代表している。     (続く)

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