ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2003年11月21日発行814号

第28回『アンリ・デュナンと赤十字(5)』

 赤十字と国際人道法の基礎を切り拓いたデュナンの名は、しかし、いったん世界から忘却されることになる。

 アルジェリアの製粉会社経営を担っていたデュナンは、本業よりも赤十字に専念していたのであろう。1867年、ジュネーヴ信用金庫の倒産のあおりで会社は倒産し、デュナンは100万フランの負債を負い、ジュネーヴを去った。赤十字国際委員会の1867年9月8日の記録に「委員会の書記としてのみならず委員としても辞任することを了承する。これをアンリ・デュナンに回答すること」と記されているという。破産したデュナンはすべての責任を負って、赤十字の役職も辞任し、生涯ジュネーヴに戻ることがなかった。

 ジュネーヴを去ったデュナンは、パリやロンドンを流浪したといわれるが、資料も記録も残されていない。

 20年の歳月が流れた1887年7月、スイスの東北端、オーストリアとの国境に近いボーデン湖近在のハイデンという小さな村に一人の老人が辿り着いた。ドイツ語圏のハイデン村で、ドイツ語を話せない老人は、下宿屋パラデスリーに住んだ。3年半後に下宿屋が廃業したため、リンデンビュール村の下宿屋に移り1年半を過ごした。健康を害していたため、ハイデン村の医師アルテル博士は老人専門病院にこの老人を入院させた。その後、老人は18年間ここで暮らすことになる。

 この老人に気付いたのが若い新聞記者ゲオルグ・バウムベルガーであった。訪れたバウムベルガーに最初は何も話そうとしなかった老人だったが、やがて心を開くようになり、若き日々のことを語った。1895年、シュツットガルトの新聞『ドイツ・イラスト新聞』にスクープ記事として「アンリ・デュナン」が報告され、白髭の老人デュナンの写真が一面を飾った。1897年には、ルドルフ・ミュラー『赤十字とジュネーヴ条約の成立史』という著作がシュツットガルトで出版された。「忘れられた男」デュナンがこうして復権した時、すでに世界の37か国に赤十字が組織されていた。

 1896年5月8日、68歳の誕生日には、ハイデン村のデュナンのもとに世界各地から称賛と祝福の声が寄せられたという。

 そして1901年、ノルウェー国会はデュナンに第1回ノーベル平和賞を授与した(平和主義者フレデリック・パシーと同時受賞)。

 辛酸と苦難の後に栄誉に包まれたデュナンは、それでもジュネーヴに戻ることはなく、1910年10月30日、ハイデン村の老人専門病院で亡くなった。墓は1931年にチューリヒ市内の墓地に建てられ、次のように書かれている。

 「1828年5月8日ジュネーヴ生まれ、1910年10月30日ハイデン没。ジュネーヴ条約と赤十字の創始者、崇高な精神を持った『ソルフェリーノの思い出』の著者、第1回ノーベル平和賞受賞者を記念して国民の寄付によって建立、1931年」。

 デュナンが人生最後の日々を過ごしたハイデン村の老人専門病院は、現在は「デュナン・ハウス(デュナン博物館)」となっている。1838年に建築された3階建の建物で、1874年から病院として利用され、内部にデュナン記念室が置かれていた。1998年7月、デュナン博物館の拡充がはかられ、オープニング・セレモニーが行われたという。

 以上は、北野進『赤十字のふるさと』(雄山閣)による。同書はデュナンの生涯や赤十字の歴史に様々な光を当てた貴重な研究であり、本稿は同書に依拠している。なお、同書はデュナン復権を報じた新聞名を「ユーバー・ランド・ウント・メーア新聞」と表記しているが、同書口絵および35頁の写真に新聞一面の一部を見ることができる。新聞名は『ドイツ・イラスト新聞(ドイツ挿画新聞)』である。「ユーバー・ランド・ウント・メーア」は新聞名ではなく、同紙が掲げたスローガンであろう。

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