ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2003年12月05日発行816号

第30回『レヴィンソンと戦争の違法化(2)』

 シカゴの弁護士レヴィンソンは、国際法について研究したことはなかった。

 1910−20年代、国際法を学んでいたのは、国家の外務官僚と一部の国際法学者である。国際法とは、国家と国家の間の約束であり、一般人が口をさしはさむ余地はなかった。

 しかし、第1次大戦の悲劇は、戦争予防の必要性を意識させ、戦争における非人道的行為の予防を痛感させた。国際法の著作を紐解いたレヴィンソンは、国際法の世界では戦争が違法とはされていないことを知って驚いた。国際法は、むしろ戦争を根拠づけ、合理化していた。当時の国際法も一応は戦争手段の規制に向けられていたが、戦争を違法化するべきだという立場から見れば、国際法は逆に戦争を正当化する役割を果たしていた。

 1918年3月、レヴィンソンは、国際法学者が役割を果たさないのなら自分がその役割を買って出るしかないとばかりに、論文「戦争の法的地位」(『ニュー・リパブリック』14号、1918年)を発表した。戦争が合法だとすれば戦争に反対することは論理的に説明できないとして、戦争反対の立場から<戦争の違法化>を唱えた。

 レヴィンソンの立場は簡単明瞭である。国家に戦争権限があるとすれば、国民は戦争反対の運動をすることができるのか。国家が戦争できるのはどのような理由か。国民が反対できるのはどのような理由か。国家には本当に戦争権限があるのか。こうしてレヴィンソンは戦争を違法とする運動が必要だと唱えた。 

 1921年末、レヴィンソンは「戦争違法化アメリカ委員会」を組織して、アメリカ内外での運動を始めた。レヴィンソンは自費で『戦争違法化の計画』というパンフレットを出版して、全米の議員や学者や活動家に送付した。その後も、レヴィンソンは一貫して戦争違法化を追及し、論文「戦争違法化条約の提唱」(『クリスチャン・センチュリー』45号、1926年)、「戦争制度を廃止する」(『クリスチャン・センチュリー』63号、1928年)を執筆している。

 レヴィンソンに共鳴した哲学者デューイは、このパンフレットのために序文を執筆し、戦争違法化の広報に努めた。

 上院議員ボラーもレヴィンソンを支え、1923年と1926年に上院に戦争違法化を求める決議案を上程した。

 こうして戦争違法化運動は全米に広がっていった。第1に、スローガンが単純明瞭で誰もが支持しうるものであった。第2に、デューイやボラーなどの著名人が協力した。第3に、戦争違法化はアメリカ政府に何らの義務を課していない。こうして教会や女性の運動に支持を広げたという。1920年代アメリカの政治雑誌等には戦争違法化に関連する論考がいくつも見られる。

 レヴィンソンは、戦争違法化の必要性を決闘との比喩で説明する。かつて決闘が合法的な時代があった。決闘は禁止されていないから、存在していたのはいかに行うかという「決闘の規則」であった。しかし、やがて決闘は許されないと考えられて、決闘は禁止された。禁止されると、決闘は殺人等の犯罪として扱われるようになった。

 決闘だけではない。かつて海賊は国際法によって禁止されていなかった。奴隷制も禁止されていなかった。決闘も海賊も奴隷制も、それを当然視していた人々がいたが、今日では誰もがその違法性を共通に認識している。

 戦争についても同じことが言える。戦争を違法化することができれば、やがて戦争を廃止することができるのではないか。今日の目から見て、いかにも牧歌的と映るかもしれないが、レヴィンソンの論理は明瞭である。

 レヴィンソンが廃止しようとしたのは「制度としての戦争」である。国家の自衛権そのものは否定していない。自衛権は国家の固有権・自然権と考えられていて、戦争違法化が直ちに自衛権を否定するものではないからである。

 *なお、レヴィンソンについては、ストーナー『レヴィンソンとパリ不戦条約』(シカゴ大学出版、1942年)が出版されているが、残念ながら入手できていない。

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