2003年12月05日発行816号

「ブッシュ有罪」へ第8次調査(4)

空爆が子どもの命と健康を奪った / カンダハルで被弾、今はパキスタンで難民生活

 今まで調査団がアフガニスタンで聞き取りをした地域は、首都カブールとその近郊、そして北部のクンドゥズ、マザリシャリフだった。第8次調査では、初めて南部のカンダハルで米軍の空爆にあった被害者と会うことができた。(勝井)


空爆により大きな障害を受けた長女のグル・ビービーさん
写真:別途に横たわり右足を空に向かって突き出して左足の指を左手で触る少女。全身がやせ細っている

 出会った場所はカンダハルではない。パキスタンのペシャワール近郊だ。

 ケーワ難民キャンプの周囲には、レンガ工場が広がる。アフガンやパキスタンの普通の家は、積み上げたレンガを泥で固めてつくる。広大な工場の敷地内に、その被害者は住んでいた。

 屋敷内に足を踏み入れるると目に飛び込んできた光景は、粗末なベッドに横たわる少女と周りを取り囲む子どもたち、そして地面に座り込む母親の姿だった。

 横たわる少女が15歳のグル・ビービーで、母親がサリマさんだ。

 黒のショールで顔を隠したままのサリマさんだが、被害の状況はしっかりと証言してくれた。空爆当時、サリマさんは夫と11人の子どもとカンダハルで暮らしていた。

 「家族13人が一部屋で寝ていました。みんなが眠っている夜中に爆弾が落ち、部屋の壁が崩れ落ちました。私は奥で寝ていて無事でした。すぐに家族の安否を確かめました。瓦れきの下から血まみれの4人の子どもが見つかりました。7歳と3歳の娘、5歳と2歳の息子で、死んでいました」

 米軍の爆撃は4人の子どもの命を奪っただけではなかった。飼っていた牛も死んだ。夫のワリ・モハマドも胸と背中、頭をけがした。そして長女のグル・ビービーも頭を強く打ってしまった。二人とも、その障害が残ってしまった。

頭を強打した長女

 寝たきりのグル・ビービーは、ときおり意味の分からない言葉を口走ったり、やせ細った手足を不規則に動かすだけだ。顔に止まったハエを自分の手で追い払うこともできない。

 「けがをする前まで、この子は全く健康でした。子どもの遊びの中心になるとても活発な子でした。コーランを読み、勉強することがたいへん好きでした。今は別人のようです。新しい服を着るとうれしいという表情を示し、水がほしいときは体の動きや顔の表情でわかるようになりましたが、意思の疎通ができなくなってしまいました」

 サリマさんの表情はショールの奥で見えないが、無念さをかみしめるような語りだった。

「国には帰りたくない」

 一家を襲った悲劇は爆撃だけではない。その後の難民生活にも引きずっている。

 爆撃の2、3日後、寝たきりの長女とともに一家は難民としてパキスタンに逃げた。まずラワルピンディに行き、テント暮らしで一年を過ごした。その後も難民キャンプを転々とし、ようやく2週間前にこの場所に引っ越してきたばかりだ。

 親戚がペシャワールにいたことと、夫がレンガ工場で職を得たからだ。精神的障害の残る夫は、4人の子どもが死んだことを2人と言ったり、自分が言ったことを忘れたりするが、働くことはできる。

 11人もいた子どもは、現在6人となった。難民生活中にもう一人子どもを病気で亡くしたのだ。

 「カンダハルには帰りたくありません。土地も家も何もないから」とサリマさんはきっぱりと語る。しかし、パキスタンでの生活も厳しい。夫が働くレンガ工場の給料は、一日50ルピー(約100円)程度だ。

 国連が支援する難民キャンプに住まない限り、難民として登録されない。サリマさんのような家族は難民として登録もされず支援も得ることができない。こうした自活を余儀なくされているアフガン難民はいまだに多数いる。(続く)

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