ブッシュがアフガニスタンで行った国際法違反の犯罪は、空爆による民間人被害だけではない。無実の罪で拘束され、「捕虜」としてキューバのグアンタナモ基地に連れ去られた多くの民間人がいる。第8次調査では、この「捕虜」と出会うことができた。(勝井)
アフガン現地での調査を終え、陸路パキスタンに戻った調査団に、一つの情報が入った。キューバから帰国し、いま米政府を相手に提訴を考えている元捕虜がいる、というものだった。
キューバから持ち帰ったマスクをつける元「捕虜」
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帰国直前だったが、二度とない機会だと判断して、彼の住むコヒスタン地方へ向かった。
イスラマバードから何度も往来した幹線道路をペシャワールに向かうと、途中に北への分岐点がある。カラコルム・ハイウェーの入口だ。道は、標高世界第二のK2を頂くカラコルム山脈を縦断して中国に至る。ハイウェーといっても日本の高速道路を想像してはいけない。インダス川沿いの崖っぷちに、二車線の道路が延々と続くだけ。ときおり山羊や羊も通る。
こんな山奥にキューバから帰った捕虜がほんとうにいるのか、と半信半疑になりながら車を揺られること約8時間。ようやくたどり着いた小さな村に、その人はいた。
パキスタン人の宗教者
1951生まれのパキスタン人だった。
「私はこの村の生まれで、材木商をしていました。ある新興宗教団体の一員でもありました。イスラム教の教えを説くことで、自らをより高め、アラー(神)に近づけることを信じて、伝道グループのメンバーとして4か月の予定でアフガニスタンに入りました。米の空爆よりも前のことで、9・11事件も知りませんでした。そのアフガン北部のクンドゥズで拘束されました」
彼は、アルカイダでもタリバンのメンバーでもなかった。熱心な宗教者だった。
その後、数時間にわたって聞き取りを行ったが、彼は祈りの時間になると、必ずインタビューを中断させた。
無実で釈放されるまで、捕虜となったタリバン兵とともに行動した彼の証言からは、捕虜虐殺・虐待の事実が浮かび上がる。
2001年11月、北部同盟のドスタム一派に逮捕され、トラックに乗せられマザリシャリフへ。その後は、コンテナに詰められてシェベルガンに運ばれた。
「250人くらいいたが、途中で50人ほどが亡くなった。コンテナは、天井に小さな穴が一か所開いているだけで、暑くて息苦しく、喉も渇いて仕方なかった。あと30分も乗っていれば全員が死んでいたでしょう」
その後は米兵に引き渡され、米軍機でカンダハルへ移送。無理やり髪の毛から髭(ひげ)、まゆ毛まで剃られた上に、手足を縛られた状態で23時間かけてキューバのグアンタナモ基地にまで連行された。
グアンタナモでも虐待はつづく。鶏小屋のような鉄格子のオリに入れられた。仲間と会話することもお祈りをすることも許されなかった。
「ビンラディンはどこにいる」「アルカイダは誰か」など20回ほど法廷で尋問されたが、「知らない」と無実を主張し、昨年11月に釈放された。
米政府の提訴も
米軍が支給したコーラン、歯ブラシ、歯みがき、白い服、マスク、IDタグ。グアンタナモから持ち帰った品を並べて、彼はこう訴えた。
「今もグアンタナモには、無実の人々が拘束されたまま。すぐに釈放すべきだ。私の商売も3年間ストップした。故障した機械も直せない。米政府に対して訴訟を起こそうと考えている」
彼は12月13、14日のICTA最終公判に証人として来日する予定だ。日本ではほとんど知られていない捕虜虐待の事実が、生々しい証言で暴かれる日がやってくる。(続く)