ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2004年01月30日発行823号

第37回『レムキンとジェノサイド条約(5)』

レムキンが1944年に提唱したジェノサイド概念は、ニュルンベルク裁判と国連総会のニュルンベルク原則決議を経て、早くも1946年には国際的に定着し始めた。次の一歩はジェノサイド条約の採択である。

ニュルンベルク決議は、国連経済社会理事会にジェノサイドを国際法上の犯罪とする作業を要請していた。国連事務総局は、国連人権委員会での審議を考慮したが、人権委員会には他に多くの議題があったため、経済社会理事会は特別専門家による起草を提案した。そこで事務総局は、事務局の人権部門が担当することとし、3人の専門家を招聘した。

1人は言うまでもなく『占領欧州における枢軸支配』でジェノサイド概念を提唱したラファエル・レムキンその人であった。2人目は、パリ大学教授でニュルンベルク裁判判事も務めたアンリ・ドンヌデュ・ド・ヴァブル、3人目は、ルーマニアの法学教授で国際刑法学会会長のヴェスパシアン・ペラであった。3人の専門家は、国連事務局の人権部門責任者のジョン・ハンフリーの協力を得て、予備草案を検討した。

ここではジェノサイド概念を他の犯罪と同じ程度に明らかに定義することに注意が向けられていた。ニュルンベルク憲章とその判決にはすでに人道に対する罪が明示されていたから、ジェノサイドを犯罪として規定するには、人道に対する罪と区別することが必要であった。また、少数者の権利については、国連人権委員会および差別防止少数者保護小委員会(現在は人権促進保護小委員会)で世界人権宣言の起草が進んでいたので、これとの整合性もはからなければならなかった。

最初の案で、ジェノサイドは「ある人間集団の意図的破壊」であり、国際法(諸国家の法)に対する犯罪とされた。ジェノサイドを他の犯罪と十分に区別する必要があると強調された。草案第1条は「人種、国民、言語、宗教、政治集団の破壊を予防する」ことが条約の目的とした。この表現はニュルンベルク原則決議とは幾分異なる。ニュルンベルク原則決議は「人種、宗教、政治その他の集団」となっていた。

レムキンは、この後「政治集団」を除外した。というのも、レムキンの考えでは、政治集団は永続性を持たないからである。また、草案はレムキンの考えに従って、ジェノサイド行為を、物理的ジェノサイド、生物学的ジェノサイド、文化ジェノサイドに分けていた。レムキンと事務局は文化ジェノサイドを入れる考えだったが、ドンヌデュとペラは「文化ジェノサイドを入れるとジェノサイド概念の意味が広がりすぎる」と主張した。第2条以下では、ジェノサイドには未遂、準備、参加、直接の教唆、共謀も含まれるとし、ジェノサイドの煽動も処罰することとした。ジェノサイドを犯した者はすべて処罰されるべきであり、上官の命令だったことで正当化はできないとされた。各国に国内法でジェノサイドを処罰するよう義務づけ、普遍的に処罰できるように試みた。

3人の専門家による註釈を付した事務局案は、1947年、国際法典化委員会に提出された。

委員会による審議が始まる前から、実質的な議論が行われた。まず、フランスが、人道に対する罪とジェノサイドの区別問題を取り上げて「人種、社会、政治、宗教集団のせん滅問題は人道に対する罪として扱うべきではないか」と提起した。委員会がどこまでの審議を行うべきかについても、イギリス、ポーランド、オランダなどの応酬があったが、結局、事務局草案は1947年7−8月の経済社会理事会に送付された。経済社会理事会は、各国の意見を徴集した上で、国連総会に送付することにした。

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