2004年01月30日発行824号

【インタビュー 国学院大学教員・楠原彰さん 青年の現在と未来 抑圧から飛び出る自由な若者】

 心を病む若者が増え、かつては考えにくい事件や事象が次々と起きている。一方で、イラク反戦行動に立つ若者の姿もある。今日の日本の青年たち、その現在と未来をどう見るか。國學院大学文学部教員の楠原彰さんに語ってもらった。(1月21日)

楠原彰さん
楠原彰さんの顔

 私の周りでもうつ病が増えています。コミュニケーション不全というか、人間関係に対して違和を感じ閉じこもっていく青年たち。夜中に電話をもらうことが多くなった。仕事に行けなくなったとか、友達に見捨てられたとか。今まであまりなかったことです。

 もう一つ気になるのは、児童虐待。とくに若い父母による小さな子ど\\もへの虐待。そういう親が子どもを育てられない、面倒くさくなって殺していく、捨てていく。

 それらの背景は複雑だけど、いろんな病いがあっても受け入れていく人がいなくなっているのではないか。それは僕も含め、とってもしんどいことなんだけれど。人間は誰でもちょっとした心の障害をもったとき誰かに依存するが、それを受け入れてくれる、昔あったような相互扶助的な関係がなくなってきている。

 以前と違うのは、孤立というより、孤絶してること。若いお母さんは、自分の小さな子どもがいる所で「もう死にたい」との電話を入れてくる。会社でチームワークの仕事ができなくなってしまう男子卒業生。「私は子どもを絶対産めない。殺すだろうから」と語る女子学生。周囲に人間的な関係を作っていくゆとりもなくなっているのではないでしょうか。

地域を商品化するグローバリゼーション

 その背景にはグローバリゼーションがあると思う。ちょっと何かあると「精神科へ行けよ」。団地の中でぐれた子どもを見ると、警察に頼む。よだれをたらして歩く者がいたらすぐ保健所へ通報する。みんな専門家に、サービス産業に依存していくんですね。

 福祉や病気や教育という手のかかる、人間関係を作らないとどうしようもできないことをマーケットに依存する。カウンセラーを学校にはりつけるなども市場経済の中で解決しようという発想です。

 問題のある者は専門家に任せ、それ以外の者で競争させる。優秀な奴は一割ぐらいいればよく、後は愛国心とか持って働いてくれればいいという教育システムをつくり、国際競争にうち勝っていこうとするものです。

 最近の政府の審議会答申に、さかんに「地域」という言葉が出てくる。今まで地域というのは非常に暖かいイメージがあったのだけれど、今は警察と地域住民とお役人による非行防止とか危機管理とか、安上がり福祉とか、国家の下請けとしてとらえ始めている。

 かつての地域には労働があり、社会的役割があり、祭りがあり、子どもたちは担い手だった。管理の対象ではなかったですよね。今は、学校でも地域でも誰かに管理される、ますます息苦しくなっていると思います。

自分の心と身体で「来たいから」とデモ

 そんな中で、去年の3月8日のイラク反戦5万人デモ。すごい、全く信じられないことが起こるなと思いました。ベトナム反戦以来でしょうか。本当に自由な個人というか、自分の心と身体で「来たいから来たんだよ」って感じ。

 僕らの時は、組合とか政党とか学生自治会とか、自分たちの選んだ組織から「行くべきだ」なんて言われて、集団の負い目を感じていました。労働組合がつぶされ政党が崩壊し、集団的な負い目から自由になってしまった中で、個というものしか自分をコントロールするものがない。

 自分で判断するから、ワーッと集まってきて好きなことやりますよね。音楽やったり、パソコンで人を集めたり、おもしろいやり方で。そういう人たちが初めて戦後日本に生まれたのではないか。

 70年代後半から日本社会は子どもたちをずーっと管理し閉じ込めてきて、彼らのストレスはたまってきた。それがいじめになったり、リストカット自殺になったり、学校が荒れたり。またそこから反発して飛び出て行く自由な個人が生まれたり。そうかと思うと援助交際する高校生が出たり、いろんな形が現れた。いいところだけ、悪いところだけ出てくるといったものではない。僕はこのような状況を臨界と呼んでいます。芥川賞をもらった若い二人も、そうした臨界から出てきた表現をこれからしていくだろうと思う。

主体的「市民」は国家を超える

 イラク反戦など、新しい自由に行動する子どもたちに対して、小林よしのりのマンガは、あんな連中は個人主義だ、国家のことなんか何も考えていないと非難する。政府は公共とか国家を対置してく。教育基本法は、平和的で民主的な社会の担い手をどうつくるかをうたっていますが、改定では平和的・民主的を隠して国家・公共だけを前面に出してくる。これは教育勅語を持ってくるような戦前への回帰ではない。閉じられた靖国とかネイションではなく、グローバリゼーションの担い手になれという意味ですよね。新しい国家主義、世界に開かれた「国民」をめざしている。小泉のイラク派兵もそんな論理からですね。

 一方、今日の若者たちは歴史意識の弱さという欠点を持っている。日本が戦争にどう加担してきたか、日韓併合はいつどのように行われたか、台湾の植民地化でどんな民族を追いやったか、など習っていないんですね。

 アジアの留学生と日本の学生が議論して必ずぶつかるのが歴史意識の点。封建時代まで教えて近現代史は教えない。後は自分で勉強せよという。

 また、政府が国家・公共という言葉を手放さない時、僕たちがそれに対置する言葉は何か。在日の人たちに「国民」は通じない。僕は「市民」ではないかと思う。市民とは生活者であって権利主体を持ったもの。反戦デモの若者らは市民としか表現しようがない。民衆とか労働者とか農民とかゴチャゴチャ含めたものなんですね。国民は国家あってのものだから国家を超えられない。市民は、地球市民とか世界市民とか、どこにでも通じる。

親の失業で子は社会に向きあう

 地域での管理に対しては、子どもの参加、役割を対置することが重要だと思う。学校における参加、家庭生活・地域生活・国際社会での参加など。すべての面で子どもたちの参加を保障し、反対することも抵抗することも、子どもたちだけで決めることも保障せねばならない。

 日本はそもそも若者を大人として扱うのが遅いですね。世界では選挙権は18歳が平均。昔は成人式は13〜14歳。15〜16歳では社会的な立派な役割を果たしてきた。地域や家族の担い手だった子どもたちが、主体性を奪われ依存を強制されているのは、最大の不幸ですね。

多くの若者が立ち上がったイラク反戦5万人デモ(2003年3月8日)
多くの若者が立ち上がったイラク反戦5万人デモ(2003年3月8日)

 留学生に日本の学校の問題点をコメントしてもらうと、共通して返ってくるのは「考えることが求められていない、覚えることを求めている」。日本はみんなが先生のほうを向いて、主体的な学びなんていらないというような教育ですよね。日本の学校の学習スタイルは、自立した市民ではなく、やはり従属的な国民を要求している。主体的で自主的な学びの保障が自立した子どもを育てる。

 90年代に入って不況になりましたが、子どもにとっては良かったと思いますね。学生も就職で失敗しているけど心配していません。親が失業したりリストラにあうと、嫌が応でも社会的問題にぶつかってくる。親は大変ですが、子どもにはそう悪いことではないですね。それが一番はっきりしたのが神戸の地震。秩序がなくなり、保護するシステムがなくなったけど、誰に言われることなく子どもたちががんばって、立派な役割を果たしました。僕がよく訪れているインドの子どもと遜色のない力を発揮した。だから、失敗を恐れず早くから子どもに託していく必要がありますね。子どもたち、若者たちは力を持っています。

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