「ネット会話、感情暴走」「バイオレンス小説がヒントか」−−長崎県佐世保市で起きた小6同級生殺害事件に関し、マスメディアでは様々な憶測がとびかっている。だが、これらの言説は重要な問題を見過ごしている。それは昨今の戦争肯定の動きである。人命に対する感性のマヒは、戦争国家が必要としていることなのだ。
子どもの変質はなぜ
小学6年生の女児が同級生を学校の一室に呼び出し、カッターナイフで首を切りつけて殺害する−−残忍な犯行は社会に大きな衝撃を与えた。
加害者と被害者の間に報道されているようなトラブルがあったとしても、それが殺人にまで発展することだろうか。従来の常識では考えられない。自分と同じ人間を殺すことには相当な心理的抵抗があるはずだ。ところが、今回の事件は殺人という一線をたやすく越えてしまったかのような印象を受ける。
これは最近の少年犯罪に共通した傾向であり、そのことが私たちを不安にさせる。子どもたちは一体どうなってしまったのか。従来の人間観では理解できない存在と化してしまったのか。
結論を先に言おう。子どもたちの「変質」は、社会の「変質」と連動している。とりわけ、命をもてあそぶかのような凶悪犯罪の増加は、戦争国家づくりの動きと密接に関係している。
米海兵隊の経験を持つ作家のダグラス・ラミスはこう語る。「アメリカのなかには、人を殺せる人間を大量に生産している、大きな権威を持った組織(軍隊)が存在する。そうなると、その社会では人を殺すということが特別なことではなくなります。いくら戦争は国境の外ですませるといっても、国内の社会が戦争の影響を受けるのです」
ラミスの指摘は、戦争肯定の動きを近年急速に強めている日本にもあてはまる。グローバル資本主義の下、社会にまん延する暴力的なメッセージが子どもたちの感性を侵食しているのではないか。
殺人訓練の日常化
人間には「同種殺しに対する強力な抵抗感」が生来備わっている。この本能は戦場という極限状況にあっても消えるものではない。意外に思えるかもしれないが、歴史を通じて戦場に出た多くの者は敵を殺そうとしなかった。
米軍の調査によると、第二次大戦の戦闘において敵に向かって発砲した米兵の割合は15〜20%にすぎなかった。日本軍の捨て身の攻撃に直面したときでさえ、撃てない兵士が多かったのである(デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』 / ちくま学芸文庫)。
この調査を重く受け止めた米軍は、人殺しを容易にする様々な訓練法を開発していった。その結果、朝鮮戦争では発砲率55%に上昇、ベトナム戦争では90〜95%に達した。
兵士を殺人マシンに作り変えた訓練プログラム、その基盤は系統的な「脱感作」(感受性を軽減または除去すること)である。敵は人間ではなく「劣った生命形態」だと兵士に信じ込ませることで、殺人に対する本能的な抵抗感を薄める、というわけだ。
今日、この技法は軍隊のみならず、戦争に世論の合意をとりつける大衆宣伝にも応用されている。敵国の指導者を悪魔扱いしたり、その国の文化・風習を愚劣なものとしてあざ笑う、あるいは人間が生活する街をただの「標的」として扱う−−そうした「脱感作プログラム」がマスメディアを使って行われている。
暴力は返ってくる
他者の痛みや苦しみに対して人々が無感覚になるように仕向ければ、なるほど戦争の正当化には役立つ。だが、戦場の殺人訓練と同質の手法が一般社会で日常的に使われるのだから、悪い影響が出ないわけがない。特に、発達段階にある子どもたちの感性に破壊的な作用を及ぼす。
兵士の殺傷力を飛躍的に向上させた米国は、「アメリカの十代は殺し合いで絶滅する」と言われるほどの少年犯罪に悩まされるようになった。戦争の暴力が社会に返ってきたのだ。その米国と同じ道を日本は進み始めた。
小泉政権の登場以来、戦争国家づくりの動きが加速するとともに、人命軽視の風潮がまかり通るようになった。政治家からは好戦的な言動が相次ぎ、先日のイラク人質事件では、自衛隊派兵という「国益」のために自国民の生命すら見捨てようとした。
平和憲法を踏みにじり「ブッシュの戦争」にどこまでもついていく小泉首相。あまりに軽いその言動は、それ自体が人命に対する感覚をマヒさせる効果を持っている。「国家による殺人」を正当化している連中が、少年犯罪が世間を騒がすたびに「命の大切さ」を説いてみても、子どもたちの耳にはむなしく響くばかりであろう。
暴力のウイルスをまき散らす戦争国家の動きを止めない限り、この国は自壊の道をたどることになる。 (M)