ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2004年07月09日発行845号

第47回『ラッセル法廷(4)』

 そのうえでラッセルは哲学者としての自分の退路を断つ。ここにサルトル哲学の真骨頂があるのだが・・・。

 「しかしながら、公正で普遍的であろうとするわれわれの意志がどれほどのものであろうと、それがわれわれの企てを正当化するに十分でないことを、われわれはよく自覚しています。われわれがまさしく望んでいるのは、その正当化が、あとからふりかえって、あるいは、そう言ったほうがよければ、ア・ポステリオリに、得られることなのです。じじつ、われわれが仕事をしているのは、われわれ自身のためにでもなければたんに真相を知るためでもないので、われわれは、われわれの結論を青天の霹靂のように押しつけようなどとは、もうとう、思っていない。まさしく、われわれは願っているのです、世界のあらゆるところでヴェトナムの悲劇を苦痛をもって生きている大衆とわれわれとのあいだに、報道陣の協力を得て、恒常的な接触を保てればよいが、と。」

 20世紀後半の思想に極めて大きな影響を与えた哲学者の一人であるサルトル。時代の制約の中で、沈黙することなく精力的に語り続けたサルトル。おそらく、厳密に言えば数々の誤りを犯したであろうサルトル。

 海老坂武の表現を借りれば、「何か大きな事件があるたびにその発言に人々が耳を傾けたサルトル、ピエロとみなされながらも街頭に立って語り続けたサルトル」は、ラッセル法廷第2回には、ジェノサイドに関する有罪判決の理由を執筆した。

 1967年12月1日の判決は、アメリカ政府をジェノサイドの罪についても有罪とした。その判決理由をサルトルが執筆した。

 サルトルの判決理由は法律的な文書ではなかった。その後の国際法文献では、サルトルの論文「ジェノサイド」があることを示しつつ、ジェノサイドの法理には踏み込まなかったといえよう。

 1944年にラファエル・レムキンが提唱して、1948年のジェノサイド条約によって国際法に登場したジェノサイド概念は、その後は国際政治の只中で浮遊せざるをえなかった。

 ジェノサイド概念が輝きを見せたのは、1967年のサルトルの判決理由を除けば、1998年以後の国際裁判の場ということになる。1998年の国際刑事裁判所規程もジェノサイドの罪を採用している。

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