ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2004年07月23日発行847号

第48回
『ラッセル法廷(5)』

 ラッセル法廷が提唱されるや日本の法律家も迅速に行動した。1966年10月、ヴェトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会が設立された。末川博、海野晋吉、松浦一らの呼びかけで自然科学・社会科学・法律・宗教界などから600人が参加し、森川金寿が事務局長となった。

 ヴェトナム戦争の激化は、米軍基地の存在を浮かび上がらせたので、日本でもそれ以前からさまざまな反戦運動が取り組まれていた。65年3月、ヴェトナムに投下されているナパーム弾の92%が日本製であると報道された。米軍・サイゴン軍のトラック、ジープ、弾薬などの多くが日本製であった。米軍の毒ガス使用はイギリス政府でさえ抗議したのに、日本政府は米軍を擁護する発言さえしていた。沖縄での反戦運動の高まりは言うまでもない。

 64年8月のトンキン湾事件に際して日本民主法律家協会、国際法律家連絡協会などは「トンキン湾事件調査委員会」を設置し、11月に報告書をまとめた。

 65年5月には『ベトナム戦争と国際法』(法曹公論社)を刊行して、アメリカによる侵略戦争を批判した。アメリカでの反戦的な法律家委員会が批判的な調査報告書を公表すると、雑誌「法律時報」66年7月号にすばやく翻訳が掲載された。法律家委員会の諮問委員会によるリチャード・フォークらの報告書も翻訳された。

 こうした活動の中心にいた森川金寿がラッセル法廷メンバーに選出された。

 66年12月、日本委員会第1次調査団(滋賀秀俊団長、陸井三郎、石島泰ら)がハノイに入り、各地で戦争犯罪の証拠を収集した。当時の「国境」とされた17度線近くまで3500キロに及ぶ踏査であり、100名を超える証人に取材している。記録映画『真実は告発する』が製作された。

 67年6月、日本委員会第2次調査団(船崎善三郎、神立誠、芝田進午ら)が2か月にわたってヴェトナム調査を行った。第2回ラッセル法廷で共犯者である日本政府を告発するために、厳しい情勢の中を文字通りの命がけの調査であったという。芝田団員は米軍機による爆撃で軽症を負っている。

 67年8月28日から30日にかけて、ヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪と、日本政府、財界の協力・加担を裁く「東京法廷」が千代田公会堂で開催された。法廷にはヴェトナムの調査委員会や、解放民族戦線からのメッセージが届けられた。ラッセル、サルトルらからもメッセージが届いた。

 法廷メンバーは、青山道夫(関西大学教授)、秋元寿恵夫(新日本医師協会会長)、宇野重吉(演出家)、大西良慶(清水寺管主)、尾崎陞(弁護士)、岡崎一夫(弁護士)、小椋広勝(立命館大学教授)、加茂儀一(科学歴史研究家)、城戸幡太郎(北海道学芸大学学長)、具島兼三郎(九州大学教授)、古在由重(哲学者)、佐久間澄(広島大学教授)、佐伯静治(弁護士)、末川博(立命館大学総長)、鈴木安蔵(立正大学教授)、田畑忍(同志社大学教授)、田万清臣(弁護士)、野村平爾(早稲田大学教授)、林要(日本学術会議第三部長)、羽仁説子(評論家)、八田元夫(演出家)、平野義太郎(日本平和委員会会長)、藤井日達(日本山妙法寺山主)、舟木重信(評論家)、福島要一(日本学術会議海員)、深尾須磨子(詩人)、松浦一(北海道大学名誉教授)、務台理作(慶応大学名誉教授)、森川金寿(弁護士)、宗像誠也(東京大学教授)である。教育学者の宗像誠也が法廷運営委員長を勤めた。

 ヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を詳細に明るみに出すとともに、在日米軍基地の実態と、日本政府の戦争協力を正面から問う法廷であった。

 森川金寿を先頭にした日本の知識人たちは、ラッセルと同じ闘いを、サルトルと同じ闘いを、それぞれの持ち場で自らの意思と手腕を総動員して闘ったのである。

 その闘いについて詳しくは、森川金寿『権力に対する抵抗の記録』(創史社、2001年)の「ラッセル法廷の思い出」参照。

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