2004年07月23日発行847号

【インタビュー / 楠原彰さん / 国学院大学教員 / 少年犯罪と子育ての困難 / ありのままを受け入れることが大切 / どんな子にも「力」がある】

楠原彰さん
写真:インタビューに応じる楠原彰さん

 佐世保の小6同級生殺害事件の衝撃が冷めやらぬ中、連日のように少年による凶悪犯罪が報道されている。子どもたちは変わってしまったのか。経済のグローバリゼーション下、子育てがますます困難になる社会状況にどう立ち向かえばいいのか。国学院大学教員の楠原彰さんにお聞きした。

(7月7日。編集部のまとめによる)

◆ 最近の少年犯罪は殺人と いう一線を簡単に踏み越え てしまう傾向があります。 この「飛躍」は何に起因す るのでしょうか。

 事件には一つ一つ固有な背景が存在します。現場に行って丹念に調べたわけではありませんので、ぼくの意見は一般的な話になりますが、根本的に考えるためには、その方がいいんじゃないかと思うんですね。

 で、佐世保の事件です。重要なキーワードが2つあるとぼくは考えています。まず「11歳」という年齢です。もうひとつは「過剰で無軌道な情報と知識の氾濫」を受けとめたり、捨てたり、それに耐えたりする「経験の胎盤」が、子どもたちの中に準備されていないという問題でしょう。

 「経験の胎盤」というのは藤田省三(思想史家)さんの言葉です。一人一人の子どもが大人に成長していく過程で、きびしい人生を他者と関係を作りコミュニケートしながら生き抜いていくための、突然訪れるつらい本当の経験を耐え抜いていくための、耐性のことです。

破壊された文化

 高度経済成長による日本社会の構造的変化以前、「経験の胎盤」はコミュニティにおける子どもたちの自然と密着した労働や遊び、地域社会への参加、家族の中での役割分担、人間の力を超えたものへの畏敬といったものによって育まれてきました。

 つまり、こういう経験をつんでいけば耐えていける、人を殺したりしないという、そういう手の込んだ子育てのシステムや文化が用意されていた。それが壊れてしまった。

 経済優先のグローバリゼーションと個別的能力主義の政策によって、コミュニティや家族が崩壊し、日本の子どもたちには「経験の胎盤」を準備するシステムも時間も用意されなくなりました。さまざまな精神的病いに苦しんだり、自己肯定ができなくなっている子どもが多くなっています。

 元来、11〜14歳というのは大人への過渡期で、肉体的にも精神的にも最も危うい時期です。大人は忘れがちなんですが、どんな子どもにも誰かを殺したい、あるいは自殺したいという欲求が生まれ、それを実際に行う力も備わってくる時期です。

 実行に移すか踏みとどまるかの分かれ目は、一人一人の子どもの中に育まれた「経験の胎盤」のありようと、子どもの内面に気づき、自分のすべてを受け入れてくれる他者の存在(自然や動物の場合もあるでしょう)にかかっているんじゃないかでしょうか。

新自由主義と戦争

◆子どもたちの「変質」は社 会の変質がもたらしたとい うことですね。

 バブル経済崩壊以降、少年犯罪(特に年少少年の犯罪)は急激に凶悪化していきました。これは、子どもたちがいっそう「孤立」し、「経験の胎盤」を用意するのが本当に困難な社会状況になってきたからだと思います。

 背景には、新自由主義の下での「仁義なき競争」としての市場経済万能主義の導入があります。新自由主義の下で競争させ、できる奴とできない奴とはっきりわける。福祉や公教育を切り捨てる。当然、人々の中に矛盾が出てきます。グローバリゼーションの下で暮らしの秩序が乱れていく。

 このことは体制の危機でもあります。秩序の乱れをどうやって抑えるか。日本は、異質な少数者を排除して、マジョリティを結集させようという古くさい手を使っています。不寛容で排他的なナショナリズム(これは全体主義と言っていいでしょう)の押し付けです。

 「日の丸・君が代」の強制はその象徴ですね。ある種の日本のシンボルを受け入れない人間を排除していく。外国人排斥の動きや北朝鮮に対するパージなんかもそうです。

 さらに、国家が戦争状態に入ると少年の凶悪犯罪が激増するという、アメリカで立証された説も考慮に入れる必要があります。これだけ世界各地で殺戮(それも一般の市民に対しての)が報じられ、そこに日本の「軍隊」がかかわっているのですから、子どもたちに影響をあたえないはずがないでしょう。

役割与え励ます

◆子育てが困難な時代にあっ て、子どもたちが現実にへ こたれず生きていくために、 親はどうすればいいと思わ れますか。

 まず、子どものありのままを全面的に受け入れる。どんな子どもにも「力」がある。そのことに子どもが気づくような関係をつくり、役割を与え励まし続ける。自分の子ども以外の子どもにも。

 まあ、これはスローガンみたいなもんで(笑)。ぼくも親ですから「全面的に受け入れるなんて冗談じゃない」というのはよくわかる。子どもは絶対に許せないことをやる場合がある。きびしく叱らなければならないときだってありますけど、それでも受け入れる関係というのかな。

 これは一人じゃできません。いろんな人に相談したり、どうしようもないときに子どもを誰かに託すとか、どこかに一緒に行くとか、そういうネットワークがたくさんないと親はお手上げですね。

 大切なのは「どんな子にも力がある」ということです。状況や関係が変わったらものすごい力を出す。「お前、力があるんだよ」。ぼくが今、学生に伝えようとしているのはこれしかない。そのためにインドに一緒に行ったりしているんですけどね。

違いがあっていい

 長野県にM大学という小さな大学があります。先日、そこの学生が見る間に変わっていく様をみてきました。彼らは地域に入って、住民たちといろんなことをやっている。老人たちに愛される電動自転車(ベロ)タクシーの開発、「ぬかご」(長芋の実)や「一本ネギ」の商品化とか…地元の住民に重宝がられてね。

フィリピンと日本の若者たちの交流(2004年3月)写真提供:AKAYユース・ジャパン
写真:10代の若者たちが楽しく交流

 そうした中で、学生たちは自分を必要としてくれる人間を地域にたくさん見つけるわけです。「M大にしか行けなかった」と自己肯定できなかった彼らが、自分がやらなきゃならないことが山ほどあることに気づいた。「学生が本当に勉強するようになった」と先生も驚いてます。

 それと、障害者や外国人、老人、いろんな生き方や仕事をしている人たちと、子どもたちと一緒に出会うよう努力をすることです。違いがあっていい。嫌なやつがいていい。人間というのはつき合ったら、どこかみんないいところがあるんですよね。嫌なやつを排除したら自分も排除される。そうしたシチズンシップ(市民性)の教育が絶対に必要です。

 自然と人間との「生命(いのち)の循環」や「生命の交わり」をできるだけ感じられるような暮らしをいつも考える。そして、それを破壊するものに対し、子育てのネットワークを作って、子どもらや他者とともに抵抗する。

 子どもたちが現代をしたたかに生き抜いていくための展望は、ここにあるんじゃないでしょうか。

◆ありがとうございました。

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