ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2004年08月06日発行849号

第49回『ラッセル法廷(6)』

 それでは最初の歴史的な民衆法廷であるラッセル法廷を、権力側はどう見ていたのであろうか。加害側のアメリカ政府やその他の政府の姿勢をいくつか確認しておこう。

 第1に、1967年5月の第1回ラッセル法廷は、当初の予定ではパリで開かれるはずであった。ところが、ド・ゴール大統領が法廷関係者の入国を拒否したためパリでの開催が不可能となった。サルトルはド・ゴールに激しく抗議している。アメリカの戦争犯罪を裁くと言っても、ヴェトナムといえばフランス自身の植民地支配責任が問われるだけに、ド・ゴールはあくまでも開催を妨害したのであろう。やむを得ず会場をストックホルムに変更したが、スウェーデン政府もラッセル法廷を歓迎はしなかった。開催を認めるか否かの大論争がおき、憲法に従って開催を禁止はできないことになった。各地のスウェーデン大使館に対して「法廷反対」のデモ行進が行われたという。

 ジョンソン米大統領は、エルランデル首相に書簡を送り、ラッセル法廷を認めると両国間の関係を悪化させると警告した。パリでの開催を阻止できたのだからストックホルムでも阻止できるはずだと。民主主義や表現の自由を尊重する姿勢は、もちろんかけらもない。ヴェトナム戦争時に限らず、アメリカの政権にまともな民主主義や表現の自由があったことは一度もない。その事実をごまかすアメリカ御用学者が、日本にも多すぎるのが不思議である。

 第2に、67年11月―12月の第2回ラッセル法廷は、当初の予定ではコペンハーゲン市内のフェスティバル・ホールで開催されるはずだったが、直前になって会場がキャンセルされてしまった。やむを得ずロスキルドという小都市に移動したが、ホテル組合が宿泊をボイコットしたためロスキルドに宿泊できず、コペンハーゲンからロスキルドに通って法廷を開催した。保守系新聞は法廷を厳しく批判したと言う。法廷は妨害に備えて警備を強化せざるを得なかった。デンマークはNATO加盟国である上、当時は、アメリカがナチスからデンマークを解放したのに、そのアメリカの戦争犯罪を裁くということ自体がスキャンダラスに捉えられたのであろう。

 第3に、アメリカ政府の反応であるが、この点については最近、ジョンソン大統領図書館や米国立公文書館の資料を基にした藤本博による詳細な研究がある。藤本は、アメリカによるスウェーデン政府等への圧力以外にも、当時ラッセルが主宰していた「ラッセル平和財団」のスポンサーとして名を連ねていたエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝、パキスタンのアユブ・カーン大統領、セネガルのサンゴール大統領、ザンビアのカウンダ大統領、タンザニアのニエレレ大統領、インドのラダクリシュナム大統領が「ラッセル法廷不支持」を表明したのは、米国国務省が現地の米国大使館を通じて働きかけていたからであることを確認している。

 藤本によれば、ストックホルム法廷に対するジョンソン政権の対応は、公には無視するというものであったが、国務次官がラッセル法廷に関する書簡を各国米大使館に送付していたことが明らかである。各国大使館に対してラッセル法廷情報の収集を要請しながら、ラッセル法廷への関心を外部に知られないように注意しているほどである。また、ボール爆弾と呼ばれた破砕爆弾(クラスター爆弾)の残虐性が世界中に知られるや、国防総省スポークスマンやジョンソン大統領自身が弁明している。

 コペンハーゲン法廷についても、北ヴェトナムからの証人の入国をデンマーク政府が拒否する姿勢だったことに国務長官が敬意を表してはいるが、公には無視すること、ラッセル法廷からの書簡には回答しないことを大使館に伝えていたという。

 ラッセル法廷全体について、ジョンソン政権は、その「権威を低め、アメリカおよび国際世論への影響を最小限にとめようと努めた」と結論づけられる。

 以上のように、最初の民衆法廷であるラッセル法廷は国際的に著名な知識人が多数参加したこともあって、権力側の様々な対応を引き起こした。

 なお、東京法廷に際して、日本外務省は「外国人の参加を認めず」との方針を決めたとの情報もあったというが、入国拒否などはなく、招請した外国人はオブザーバーとして参加した。

(参考文献)藤本博「ジョンソン政権と『ラッセル法廷』(ベトナム戦争犯罪国際法廷)」『国際政治』130号(2002年)

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