ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2004年08月20日発行851号

第50回『クラーク法廷(1)』

 1990年8月2日、フセイン大統領の命令によりイラク軍はクウェートを占領した。当時からよく知られるように、イラクがクウェートに手を出してもアメリカは黙認するかのようなメッセージが出されており、フセインは見事にだまされたと考えられてきたが、占領にいたる政策選択経過の詳細は不明である。

 アメリカ側はこれに対して、ブッシュ大統領が、クウェートを解放する、サウジアラビアを防衛するとか、フセインは悪魔であるといった猛烈な宣伝を開始し、国連を巻き込みながら、イラク戦争へと走り出した。いわゆる「湾岸戦争」である(1980年代のイラン・イラク戦争も時に「湾岸戦争」と呼ばれる。1991年の「第2次湾岸戦争」、2003年の「第3次湾岸戦争」と続く)。

 1991年1月16日、イラクに対する空爆とミサイル攻撃が開始された。米英中心の多国籍軍と呼ばれた。爆撃は42日間続けられた。イラク側はほとんど反撃する能力もなく、撤退するばかりであった。アメリカは11万機を出撃させ、8万8000トンの爆弾を投下した。その93%は1万メートルの上空からの自由落下爆弾であり、要するに無差別爆撃であった。7%はレーザー誘導装置をつけた爆弾である。

 爆撃により、発電施設、浄水施設、電話局、中継局、送信施設、食品工場、ミルク工場、市場、鉄道施設、高速道路、幹線道路、油井、パイプライン、下水処理施設など民間施設が無差別に破壊された。後に詳細が判明することになるが、大量の劣化ウラン兵器が使用された。その被害は今も続いている。バスラから敗走するイラク軍に対する殲滅戦は苛烈なもので、もはや戦闘ではなく、逃げるイラク兵に対する一方的ななぶり殺しが行われた。

 ハイテク兵器の性能ばかり誇り、現地で何が起きているかを正確に伝えないメディアの協力のもと、フセインを悪魔化して非難し、戦勝に狂喜するアメリカ世論は、ブッシュ大統領への熱烈な支持に沸いた。

 しかし、アメリカの対イラク政策の歴史を知り、石油戦略を知る者は、イラク戦争の真の目的を察知した。なぜアメリカはイラクをクウェートに引き込んだのか。

 アメリカ元司法長官のラムゼー・クラークは空爆下のイラクに潜入して、3200キロにわたる調査活動を行なった。爆撃の実相と民間人の被害を調査した。バグダッドやバスラでは多くの民間人が殺され、民間施設が破壊されていた(ビデオ『ラムゼー・クラーク調査団空爆下のイラクをいく』戦争に税金を払わない!市民平和訴訟の会)。

 クラークの呼びかけにより、1991年5月11日、ニューヨークで調査委員会公聴会を開き、イラク戦争におけるアメリカの行為について19の起訴事実を提示した。これが調査委員会のその後の作業の基礎となった(起訴状は、ラムゼー・クラーク『被告ジョージ・ブッシュ有罪』柏書房)。各地での公聴会が始まり、公聴会は世界15か国に及び、アメリカだけでも28都市で開かれた。アジアでは香港、マレーシア、フィリピンで公聴会が開かれた。日本でも「湾岸戦費90億ドル支出」に反対した市民平和訴訟の会が、1991年9月10日、クラークを招いて、東京渋谷の山手教会で東京公聴会を開催した。

 これらを受けて、戦闘終結1周年の1992年2月27日から29日にかけて、ニューヨークで民間の国際法廷が開かれた。この国際戦争犯罪法廷は、日本ではときに「クラーク法廷」と呼ばれてきたので、ここでもこの略称を採用する。

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