2004年09月22日発行855号
ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2002年04月25日発行785号

第52回『クラーク法廷(3)』

 空爆下のイラクを駆け抜けて戦争被害調査を行なったラムゼー・クラークは、現地撮影ビデオとブッシュ大統領らに対する起訴状を手に、全米諸都市をまわり、戦争犯罪法廷を呼びかけた。さらに、海外にもとび、各国で法廷準備を行なった。

 アジアにおける公聴会は、1991年9月に行なわれた。9月1日・2日、香港でアジア学生協会が他のNGOと協力して、記者会見と公開フォーラムを開いた。続いて9月4日、マレーシアで湾岸戦争犯罪特別委員会が公聴会を開催した。さらに、9月6日、フィリピンでも調査委員会集会が行なわれた。ちょうどスービック基地の撤去をめぐる激論のさなかであった。

 東アジア3カ国をまわったクラークは、9月10日、東京に姿を現した。湾岸戦費支出に反対する市民平和訴訟の東京地方裁判所における第1回口頭弁論を傍聴した後、渋谷の山手教会で東京公聴会に登壇した。さらに9月11日、クラークは、横須賀港でアメリカ空母インディペンデンス入港反対の市民船団に加わった。

 山手教会の東京公聴会では、クラークらが撮影したイラク現地ビデオが上映され、被害の実態が明らかにされた。横浜や沖縄からの参加者は米軍の存在とそれに伴う被害を明らかにしつつ、在日米軍基地を許している日本の加害責任を追及した(ビデオ『告発!湾岸戦争ラムゼー・クラーク氏は世界に訴える』市民平和訴訟の会)。

 東京公聴会の実務を担った市民平和訴訟の会は、日本政府が多国籍軍、「湾岸平和基金」に90億ドルの援助を行なうことを決め、さらに難民輸送のための自衛隊機派遣や、機雷除去のための掃海艇派遣を決定したことに対する異議申立ての訴訟を提起した原告団・弁護団であった。東京では1047名の原告が提訴したが、大阪、広島、名古屋、鹿児島など各地で同様の訴訟が相次いだ。数え方にもよるが、26件の訴訟、3333人の原告といわれた。

 原告の主張は、日本国憲法の平和主義からいって、自分たちの平和のうちに生きる権利を守るだけではなく、自分たちの税金で戦争が行なわれないこと、他人の平和のうちに生きる権利が侵害されないことを唱えていた。殺すことも、殺されることもない平和的生存権の主張である。

 市民平和訴訟は、憲法前文と9条に由来する平和的生存権とともに、戦争違法化と国際人道法の発展を確認し、これらを受けて戦争協力拒否権を提示した。もうひとつの柱は財政民主主義に支えられた納税者基本権である。平和的生存権の主体として、人殺しのために用いられる税金は払わない、税金から戦費を支出することは許さないとの主張である(前田朗『平和のための裁判・増補版』水曜社)。

 こうして大衆的に闘われた「平和のための裁判」は、東京地裁・高裁・最高裁で敗訴に終わる。各地の市民平和訴訟も同様の道をたどった。また、カンボジア自衛隊派遣やゴラン高原PKOに反対した市民平和訴訟も敗訴に終わった。

 しかし、これらの訴訟原告らは、その後も形を変えてさまざまな現場で平和を求める活動を継続している。

 クラークと市民平和訴訟の出会いは、ニューヨークにおける戦争犯罪法廷への日本からの参加を実現した。東京公聴会を実現した市民平和訴訟の会代表が法廷を傍聴した。「国際戦争犯罪法廷のための背景資料」には、市民平和訴訟の会と日本国際法律家協会の名が記録されている。戦争犯罪法廷判事22人の一人は、故尾崎陞(弁護士)であった。

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