2004年11月10日発行862号

【妻のおかげで頑張ってこれた】

熊本闘争団・浅井英治さん

 10月18日に開かれた鉄建公団訴訟の個別立証・第2期日では、5人の原告が証言した。その一人、熊本闘争団・浅井英治さん(49歳)の陳述書を掲載する(抜粋、まとめは編集部)。

浅井英治さん(中央)
写真:街頭行動で訴える浅井さん

 1973年に高校卒業後、臨時雇用員として5か月間勤め、74年に国鉄の試験を受けて合格しました。近所や親戚の人は「もう安心ばい。これでお父さん、お母さんも苦労したかいがあったな。定年まで病気もせずに働けば後は楽たい」と言ってくれました。

 大牟田保線支区踏切保安掛の業務は、長時間、踏切を操作する大変な仕事でした。その後、軌道掛になり、線路の保守作業をしました。

 85年頃から、国鉄の分割・民営化を前に、私の職場でも「このまま国労に残っていたら新会社にいけない」という雰囲気が充満しました。私の家族は、熊本保線区の助役の奥さんから「浅井さん、考えられた方がいいですよ」と言われました。奥さんと私の実家が親戚関係にあるので、助役がそう言わせたのだと思います。その後、助役本人からも2回ほど電話があったそうです。私の両親からも「どうにもならんよ。国労、やめた方がいいよ」と言われました。

 しかし、私は国労を辞める気はありませんでした。先輩たちが大変な苦労をして勝ち取ってきた権利を掘り崩されてしまうのは一瞬です。先輩たちの苦労を無駄にしたくないと思ったからです。

人活センターに配属

 私は国労バッジを着けて朝夕通勤していましたが、一緒に通勤していた仲間は、ある日を境にバッジをはずしました。「おまえはまだそんなものを着けているのか、早くはずしたほうがいいぞ、着けて何になるとか」とよく言われました。

86年7月、私を含む10名が人材活用センターに配属。87年正月、妻の実家に行くと義理の兄さんから「英治君のやっていることは正しい、でも京子や子どものことを一番に考えたらどうか」と少しきつい口調で言われました。その後、私自身もどうしていいか分からなくなっていましたが、そんな時に父が「お前は一人じゃないんだろう、他にも頑張っている人がいるのだろう」と。この一言で自分一人ではない、仲間がいるじゃないかと気づいたのです。

 87年2月16日、国労を抜けないことによる不利益は覚悟していましたが、不採用となると「何で私が」と怒りを感じました。家に帰ると両親は心配でたまらない顔で待っていました。妻から「前から言っていたでしょ、子どもはまだ小さいし、これからお金がいるのよ。理想だけでは生活できない」と言われました。

 国鉄清算事業団に配属と同時に急性肝炎になり、3か月入院。医者は「原因は分からない。精神的なものではないか」。当局は一度も見舞いに来ることもありませんでした。鉄建公団の証拠によると、就職指導49回、斡旋18回とありますが、雇用対策支所で就職指導や斡旋を受けた記憶はありません。

 90年2月、3人目の子どもができました。しかし、将来を見通すことができず、妻と相談した結果、あきらめることを選択したのです。病院に行くと妻はベッドの中で泣いていました。「何でこんな目にあうの」と言われ、私は何も言えませんでした。

子どもが不登校に

 子どもは19歳と18歳になりました。下の長男は小学4年生から不登校になり、今も学校には行っていません。小学校の先生に聞いても別段に変わったことはなかったと言われ、私のことが原因ではないかと思います。妻と家計のことでいつもケンカばかりしているのを見たり聞いたりしていることも関係していると思います。

長女も小・中学校と親の言うことを聞き、自分なりにやっていましたが、高校になって、行きたくないと泣くばかりでした。妻も、長男・長女と不登校になり、育て方がいけなかったのかといろいろ悩み、子どもの面倒を見るために仕事もパートに変えました。妻からは「これからどうする。お金もないし、あなたはそれでもいいかもしれないけれど、私たちのことも少しは考えてよ」と言われ、一番つらい時でした。長女は1年くらいすると夜の学校に行きたいと言い、今はアルバイトをしながら元気で学校に行っています。後は長男のことが心配です。

 何とか今日まで頑張ってこれたのも、仲間や親、家族が支えてくれたおかげだと思っています。なによりも妻が一緒にいてくれたことです。いつ離婚してもおかしくない状態でしたから。

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