2004年12月08日発行866号

【村八分以下の扱い】

鳴海誠さん・稚内闘争団

 鉄建公団訴訟第3期日で稚内闘争団を代表して証言したのは鳴海誠さん(57歳)。「村八分以下の扱いを受けた」と嫌がらせの数々を語った。陳述書(抜粋)を掲載する(まとめは編集部)。


顔写真

 高校卒業後の1965年に南稚内駅の構内作業掛として国鉄に入りました。

 構内作業掛は貨物列車の入れ替え作業が仕事です。時速20〜30キロくらいで走行している車両に助走をつけて飛び乗り、連結器の上にあがり、足でコックを締め、エアーホースを切って前の貨車を離し、後の貨車を止める。サーカスの人も驚いたというくらい危険な作業をして一人前だと言われていました。

 夜の12時まで作業をして朝4時に起きる1昼夜交代勤務を20年間以上続けてきました。吹雪の中、停電した信号の代わりに合図灯一つを手に信号機に登り列車を待ったり、急行列車が人を跳ねたようだからと捜しに行ったり、恐怖におののいた時もありました。その間、旭川鉄道管理局主催の事故防止案に出品し金賞をいただいたり、人命救助で駅長から金一封をいただいたこともあります。

人材活用センターに発令

 分割民営化が公然と言われ始めた頃、駅長は「10人しか乗れない船に30人も40人にも乗ろうとしたら船は沈んでしまい誰も助からない。先に乗った者は後から来た者を蹴落とさなければ助からない」と何度も言うのです。国労を脱退する仲間が出始めました。

 86年、南稚内駅では国労を脱退した5名を除き、「血の入れ替えだ」と称して国労全員が人材活用センターに発令されました。正規の勤務から外され、草むしりやトイレ掃除、窓拭きなどの仕事をさせられました。駅長は「私の権限で発令した。適材適所だ」と言いました。

 JR不採用となり87年4月、国鉄清算事業団稚内雇用対策支所に発令されました。長テーブルに3人がけで身動きもできないような空間に110人以上の職員。質問にはまったく答えず、毎日、自学自習だとして何もさせず、外出やお茶を飲むことも駄目でした。

 再就職のためにほとんど全員が公務員講座を希望したにもかかわらず公務員講座は開設せず、「民間講座を希望しないなら働く意志のない者に指定する」と。誰も講座を受けないので、2年目に「期間を2週間に変更するから受けてもらえないか」と言い出し、みんな唖然としました。当局の用意した再就職の斡旋マニュアルはすべて終了したとするためだったのです。

 窮地に陥った当局は突然、支所から全員が出て行ってしまい、1キロ離れた職員相談室に居を構え、朝の出勤時と退社時にタクシーで乗り付ける。そんな状況が最後まで続きました。理由は職員が暴力を振るうため事務所にはいられなかったとしたそうです。私たちを暴力集団に仕立て上げ、職場の管理を放棄したのです。

母の死

 2年目の12月6日に母が亡くなりました。葬儀は私が住む国鉄アパート独自で形成されていた町内会に頼むしかありません。町内会長だった運転区助役に依頼したが断られ、国労の仲間に葬儀委員長を引き受けてもらいましたが、出棺を見送るため葬儀に出ようとした仲間に支所長が「外出したら処分する」と言ったと聞き驚きました。日本には昔から村八分という言葉があり、それでも死んだ時や火事の時は例外なく助け合ったと聞きました。私たちは村八分以下の扱いを受けたと思っています。

 分割民営化と同時に、アパートは鉄製の窓のアルミサッシ化や風呂へのシャワー設置、水道管の取替など改修されましたが、私の所は直しません。郵便受けの氏名札が度々地面に投げ捨てられたこともあります。不採用になった私と家族は、ここに住む権利がないと言いたいのでしょう。妻や子どもを巻き込んだ嫌がらせです。

娘が中学生になって、理解のない担任に「鳴海のとこは生活保護か」とみんなの前で言われて、ショックを受け泣いて帰ってきました。妻は「制度を利用することは恥ずかしいことではない。第一お父さんが何も悪いことをしていないことは、あなたが一番よく知っているでしょう」。娘は「JRに採用になっていればこんなことはないのに」と言い、辛い思いをしました。

 JRと国鉄清算事業団、確かに名前は違いますが、同一の管理者を使い差別や不当労働行為、解雇を行い、自分たちはJRに戻っている。こんな不当極まりないことはない。

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