2004年12月15日発行867号

【精神まで奴隷にできない】

矢野隆志さん(門司地区闘争団)

 11月4日の鉄建公団訴訟個別立証第3期日で、門司地区闘争団の矢野隆志さん(50歳)は「国鉄分割・民営化で労働者はゴミのように扱われ、人生をずたずたにされた」と訴え、不当労働行為を暴いた。矢野さんの陳述書(抜粋)を掲載する。

矢野隆志さん・門司地区闘争団
:写真ゼッケンをつけた矢野さん

 1972年に高校を卒業。印刷会社や鉄工所に勤めた後、77年国鉄九州地方自動車部宮崎営業所にバス車掌として採用された。80年3月、国鉄バスの全面ワンマン化で車掌の仕事がなくなり、小倉自動車営業所のトラック助手に転勤。さらに82年11月、トラック業務の民間委託で営業所が廃止され、駅の営業係を希望したが、駅も合理化で過員のため83年1月、門司信号通信区八幡支区に電気掛として配転となった。

 自動車の営業職からレールの技術職へ転勤となったため、3か月の門司鉄道学園普通課程電気科へ入園。クラス30名のほとんどが18歳から20歳の若い人で、当時29歳だった私は最年長だった。寮生活が基本だったが、次男が生まれたばかりで毎日外泊届を出して通園の日々を送った。柄にもなく一生懸命勉強し、終了時に優秀賞をもらった。

 国鉄再建監理委員会が発足した83年以降、職場の雰囲気は一変。6月から立席呼名が強要され、区長は「職場では管理者と職員だ。民主主義など必要ない。安全や仕事より管理者の言うことを聞くかどうかだ」と発言し始めた。

トイレに行くのも許可

 84年になると、春闘時のワッペンや国労バッジの着用に対し恫喝がかけられ、職員一人一人の机やロッカーを開け、労組関係の資料はすべて没収、焼却された。

85年3月、春闘時の腕章着用で業務が突然取り消され、「トイレに行くのも許可を取れ」と軟禁状態を強要された。国労組合員としての誇りを奪おうという攻撃だ。7月、夏期一時金の5%カットに続き、組合の班長だった私は、厳重注意(勤務成績不良)という理由で1号俸減になった。理由を聞いても「自分で考えろ」。

 85年8月、派遣に向けた個人面接が行われ、私が「一人前の技術者になるためにここで勉強したい。分割民営化で鉄道が再建できるか疑問だ」と答えると、区長は「君の考えは非常に危険だ。そのような者は国鉄にいらない。辞職願いを書きなさい」と怒声をあびせた。

 85年11月、九州鉄道学園に入園。入所者全員が国労組合員で、バッジを外せとの攻撃が強まり、とうとう残ったのは私ひとり。講師から「授業を受ける資格がない。廊下に立っとけ」と教室を追い出された。この日の屈辱は今も忘れることができない。

 86年に入ると、管理者が家庭訪問や電話で家族まで脅し始めた。ある組合員には「おたくの息子さんは再三の注意にもかかわらず、いまだに国労バッジやワッペンを着けている。このままでは首になりますよ」と脅したり、「今日が最後だ。新会社への門が完全に閉まる」と電話をしている。

 家庭訪問や電話に加え、個人面談が頻繁に行われ、意識改革を迫った。86年7月の人材活用センターの設置とインフォーマル組織発足の頃から、櫛(くし)の歯が欠けていくように国労脱退者が続出し、特に国労修善寺大会後は、威勢のよかった組合役員や活動家が一夜にして当局のお先棒かつぎに豹変した。同年12月に「明るい鉄道電気を創る会」の署名集めを始め、翌年1月に鉄産労を旗揚げ。分会長や書記長、執行委員、青年部長などが国労を脱退して鉄産労に加入した。

不当な刑事弾圧も

 人活センターに入れられ国労に残っていた組合員4名は全員JR不採用となった。

87年4月、私は国鉄清算事業団門司雇用対策支所第2教室に配属になった。8月、職員として著しく不都合な行為があったとして、停職4か月2名、停職1か月3名の不当処分が発令され、私も訓告処分を受けた。翌年1月、その停職者5名に「公務執行妨害」容疑で刑事弾圧がかけられ、4名が令状逮捕された。私も自宅と車を家宅捜索された。5名は起訴もなく一泊二日で釈放。清算事業団当局の手段を選ばない悪辣な弾圧に、国鉄と何ら変わらない姿勢が見てとれる。

 国鉄改革の嵐の中で、仕事より意識改革―管理者に対する服従度で評価が決まった。私は精神まで奴隷になることはできない。JR九州不採用の理由さえいまだに明らかにされていない。リストラ首切りが横行し、失業や倒産で自殺する人が後を立たない。採用差別事件の責任はいったい誰がとるのだろう。

ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS