2004年12月29日発行869号

【人権無視の責任を問う】

大塚勝也さん / 旭川闘争団
顔写真

 12月2日に最終期日を迎えた鉄建公団訴訟の個別立証。証言した原告7人の一人、北海道・旭川闘争団の大塚勝也さんは1979年4月、国鉄旭川鉄道管理局に採用されて以降、87年3月に職場を奪われるまで、信号職場で働き続けてきた。大塚さんの意見陳述書(抜粋)を掲載する。


 私は信号・通信・電力の3系統ある電気区の信号職場で、踏切遮断機や信号機の検査等に従事し、深川信号通信支区に勤務当時は、独身寮にいたことから夜中の事故にも度々呼び出しがあり、事故の早期復旧と原因の解明に努めていました。

 国労には採用と同時に加入し、組合は闘いを通じて労働者の権利を守り生活の向上を目指す組織と教えられ、79年に分会青年部副部長となりました。

 81年6月、旭川第一信号通信支区へ転勤。当初は現場協議がもたれ、様々な事柄が労使確認されていました。しかし、国鉄再建監理委員会の発足と答申によって、管理者と組合との間に大きな亀裂が入り、現場協議は一方的に破棄され、管理者は次第に高圧的な姿勢になってきました。

再就職者が自殺

 86年7月、電力職場での人材活用センター設置に続き、信号・通信においても余剰員(人活)グループが設置され、私はここに発令されました。職員は本来業務から外されました。雇用不安が煽られ、国労を脱退する組合員が出始めました。

 87年2月16日の新会社への振り分けの日、管理者から「採用通知は来ていません」。理由は「設立委員会が決めたことで、私たちにはわかりません」というだけでした。旭川電気区分会では国労組合員82名中22名の採用で、鉄産労や動労など他労組は全員が採用されました。

 入社当時、両親らは「良い所に入った」と喜んでいただけに、新会社不採用に相当なショックを受けていました。

 87年4月、清算事業団旭川第2雇用対策支所に配属。支所では、具体的な作業指示や研修指示はなく、朝の点呼で「自学自習です」とだけ告げられ、再就職斡旋は新聞の求人欄のコピーを事務室に貼り出す程度でした。

 配置されて間もなく、個人面談が実施され、希望を伝えても「言われるようなものはありません」など、再就職を真剣に考えているとは思えませんでした。資格取得の措置も採られましたが、資格による再就職者は3名のみ。ずさんな再就職斡旋で自殺者まで出ました。

 事業団斡旋で旭川市内の建設会社に再就職したその人は、この会社を辞めざるを得ず、その後、次の就職先を探していましたが、家族宛てに遺書を送って失踪し、90年3月に凍死体で発見されました。

 自殺について細井支所長は「国鉄の分割・民営化は間違いであり、このことがなければ死ななくてすんだと思う」と語りました。

 支所3年間の私への就職指導・斡旋の回数は、被告側証拠(乙19号証)で指導25回、斡旋44回となっていますが、指導は3回しか記憶にありません。斡旋はビル管理会社の1回で、希望に沿わず断って以降、1度も斡旋の記憶はありません。

 清算事業団から解雇通告された90年3月31日、職員・家族と管理者との「最後の現場交渉」が行われ、抗議や責任追及に支所長は「分割・民営化は間違いであり、解雇も間違いである」と涙で語りました。管理者自らが分割・民営化の矛盾、新会社採用での不当性を認めた瞬間でした。

 紙切れ一枚で理由を示されず不採用となり、何の手立てもされずに清算事業団から解雇となったことに改めて強い怒りを覚えました。

鉄路で働く姿見せたい

 旭川市内の四つの支所から解雇された組合員で国労旭川闘争団を結成し、それぞれが生活・闘争資金を捻出するために野菜の収穫作業、土木作業、電気工事などのアルバイトに就き、必死に働き、会社からの信頼を得てきました。

 94年10月、労組の書記として働く妻と結婚し、現在小学2年生の娘がいますが、生活は楽ではありません。

 妻や娘に、JRの制服を着て鉄路で働く私の姿を見せたいですし、これまで心配や苦労ばかりをかけてきた私と妻の両親、そして私たち家族が安心して暮らせる日が早く来ることを望んでいます。

 清算事業団を解雇されて以降、国民年金に3年8か月加入しましたが、支払いが厳しく妻の扶養に入り、第3号被保険者として10年になります。年金資格が回復されず現状のままでは、将来への不安は大変大きなものになります。

 今日まで人権を無視され続けている責任の所在を明らかにしていただき、公正・公平な判断を下されるようお願いします。

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