昨年12月2日、鉄建公団訴訟の集中審理で証言した佐賀地区闘争団の猪股正秀さんは、77年に長崎本線牛津駅の交通保安係として就職した。安全に列車を運びたいという猪股さんの思いは、国労組合員というだけで踏みにじられ、人生は狂わされた。陳述書(抜粋)を紹介する。
猪股正秀さん 佐賀地区闘争団
|
|
交通保安係は24時間拘束で、列車が接近しブザーが鳴ると詰所を出て遮断機を降下させ、踏切内を通行人や車両が往来しないようにします。安全が確認できたら列車に向かい白旗を振り、安全なことを知らせます。常に神経を集中させ、事故防止に努めてきました。ミスは一度もありません。
82年7月、国鉄の分割民営化法案が提出された頃から牛津駅での現場協議は開催されなくなりました。駅長は「私には一切権限がありません。門司鉄道管理局の命令です」と言うだけでした。
84年2月の全国ダイヤ改正に伴い踏切が自動化され、何の業務もなく退勤時間まで過ごす日々が続きました。現場協議制度が破棄され、現場における労働条件を協議する場がなくなった結果です。
国労脱退を強要
85年3月、佐賀駅営業開発センター勤務となりました。朝の点呼で管理者は「立ちなさい。ワッペンは外しなさい」と言い続け、立ち上がらないとノートに記録していました。各自のロッカーから赤いタオルを取り上げたので「個人の物ですから返してください」と言っても返しませんでした。組合員Oさんは「妻が出産間近で体調が悪いので病院に送る」と助役に年休を申請したところ、「国労の座り込みに参加するのだろう」と認められず、賃金カット覚悟で病院に行かざるをえませんでした。
駅長と総括助役は86年8月から9月にかけて組合員Bさんに「国労バッジを着けていると勤務評価の対象となり、昇給、昇格、処分に影響する。一生を左右する事態になっても知らないぞ」と脅迫し、国労脱退を強要しました。
86年7月、久保田人材活用センターに配属されると、20名全員が国労組合員でした。研修・教育はなく、駅舎清掃、草むしり、空缶拾い、看板書きといった本務とかけ離れた仕事は、嫌がらせとしか考えられませんでした。私たちは労働者・人間として『正しさと誇り』だけは忘れないようにしようと話し合いました。
87年2月16日の不採用通告の理由を管理者に問うと「答える必要はありません。早くこの部屋を出て行ってください」と言うのみでした。
87年4月から清算事業団佐賀派出に所属しました。同年6月のJR九州2次募集に鉄産労から3名が応募し、2名が採用されました。S氏は国労当時戒告4回、訓告1回を受けていますが、86年12月脱退。H氏も停職6か月処分を受けましたが、86年12月頃国労を脱退しています。
就職斡旋では職安の情報を掲示し、新聞情報を口頭で伝えばかりでした。相談員や管理者は「条件を落とさないと就職口はない」「気持ちを変えなさい。2月16日のことを言っていても生活はできません」と言うだけでした。
名ばかりの就職斡旋
88年1月に専門学校事務の募集に応募した組合員M氏が書類選考で不採用になりました。理由を助役にただすと「雇用対策部の指示で『職員管理調書』を提出しています」と言いました。能力、人格を誤ってとらえている調書が利用されていたのです。88年2月に唐津市の裁判所用務員に「佐賀市在住でも受けられる」と聞いて応募したら「唐津市とその近郊から採用する」と面接官から言われた人もいるそうです。年齢条件が該当するという説明で応募した人は「該当しない」と門前払いとなりました。相談や斡旋とは名ばかりで、ずさんなものでした。
(被告側提出の)「就職指導・斡旋状況」によると私には就職指導50回、就職斡旋24回とありますが、記憶がありません。どのような斡旋をされたのか具体的に提示してもらいたいと思います。
「国鉄は定年まで働けると思っていた」と妻は悲しみました。「学校や保育園の書類の職業欄に何と書いていいか。病院で保険証を出すのさえ苦痛になる」と言われました。清算事業団解雇直前の90年3月私たちは離婚しました。2人の子どもが健康で育ってくれたのを見て、人間性を形成する一番大事なときに心の支えになってやれなかった自分に、言葉では言い尽くせないものがこみ上げてきます。
母は近所の人から聞かれ「息子は今、旧国鉄で働いている」と答えたそうです。「自分の息子に限って悪いことはしていない」と私への思いを聞かされたときは涙が出る思いでした。解雇を撤回させて両親が周りに胸を張って言えるように闘い続けていきます。