2005年05月06日発行886号

闘う両親へのエール 納得できる解決求める気持ちは同じ
鉄建公団訴訟原告の子どもたち―『おやじの涙は忘れない』

【両親の闘う姿が誇らしい】

北海道・音威子府闘争団家族  吉田聖崇さん

 国鉄分割・民営化時の不当労働行為責任を問う鉄建公団訴訟の判決日は9月15日と決まった。残る4か月余り、原告は50万署名を柱に大衆運動を広げて勝利を勝ち取る構えだ。苦楽をともにしてきた闘争団の子どもたちの思いを伝える。


写真:顔写真

 北海道・音威子府闘争団の吉田儀則(よしのり)さんの長男、聖崇(せいたか)さんは今、遠く親元を離れて九州で大学生活を送る。

 聖崇さんが生まれたのは、国労組合員=怠け者キャンペーンが吹き荒れていた最中の1984年7月。父がJR不採用とされた87年2月には2歳。その前月には弟が生まれていた。

母と一緒に抗議

 「事務所のような所で父親たちが詰め寄っていました。JRの人だったのか、テーブルをはさんでしきりに弁解している。それが何となく頭に残っています」。小学生の頃は母に連れられて週1回の抗議行動へ。ゼッケンを着けた姿も覚えている。両親は闘争団として闘いながら懸命に自立した生活を築いてきた。しかし、聖崇さんはつらい思いをしたことはないという。

 「首を切られて職場に戻るためにお父さんとお母さんは闘争している、そう聞かされてきました。家にお金がないことは最初からわかってました」。むしろ、楽しい思い出の方が多い。遠くから支援の人たちが激励に来ると、たくさんの人たちとジンギスカンが食べられ、うれしかった。闘争団の団結旅行も心待ちにした。「みなさん心の優しい人たちで、それを感じていたのだと思います」

 ただ一度だけ父の苦しさを身に感じたことがある。高校進学の時のことだ。国際文化を学ぼうと思い立った聖崇さんは札幌の公立高校への進学の意思を固める。父は「音威子府は田舎で、闘争団員も多い。同じ境遇の友達もいる。都会へ行けば、闘争を理解してくれる人ばかりじゃない。つらい思いをしやしないか」と涙を流したという。

「君が代」反対し着席

 高校時代は、「JRに責任なし」を認める四党合意問題で国労が大きく揺れていた時期と重なる。高校・大学と一人暮らしが続き「実は、父たちの闘争のことはよく知らないんです」と笑う。

 高校の卒業式の「君が代」斉唱では、我慢できずに全校でただ一人着席した。教師の席の真ん前だった。親に求められたわけではない。父や母が「日の丸を掲げ、君が代を歌って戦争に行って死んだ人たちがいる」と話していたことが頭から離れなかった。「僕はそうやって死んだ人たちのこをは否定はできないけれど、やはりいい気持ちにはなれませんでした」

 学費がかかるから、と両親は国公立大学への進学を望んだが、聖崇さんは国際色豊かな今の大学を選んだ。がんばれば3年で卒業できる制度があり、そうすれば少しでも出費を抑えられる。

 大学の友達から親のことを聞かれると「国鉄から解雇されて、職場復帰を求めて闘争している」とまっすぐに答える。「そんなことがあるのか、すごいな、とむしろ尊敬のまなざしを向けられますよ。平坦な生活と違うんだと、誇らしい気持ちにもなりますね」と笑顔で語る。

 「本当に豊かな家庭で育ててもらったと思っています」。聖崇さんは何度も繰り返した。「親が闘争をしてきたからこそ、支援してくれる皆さんとも知り合いになれた。こんなことを言うと、解雇されてよかった、と思われてまずいかな」

社会を変える闘い

 来春の3年での卒業と就職をめざしてあわただしい生活が続く。その中でも道理ある解決を望む聖崇さん。「長い間信念を持って闘ってきた両親や支援の皆さんが望むような解決ができればうれしい。父がうれしければ自分もうれしい」

 聖崇さんは国鉄闘争の解決が今の社会の中で持つ意味をこう表現する。

 「今はますます勝ち組と負け組がはっきりする社会になっていますよね。競争は必要かもしれませんが、救済されるべき人の基本的人権が尊重されず、国から切り捨てられるのはおかしいと思います。国鉄闘争にはそういう社会を変えていくという意味もある」

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