2005年05月20日発行887号

正念場迎える鉄建公団訴訟

【「できること精いっぱいやりたい」 強く生きる勇気わく】

熊本闘争団家族・野田ユミさん

 国鉄分割・民営化の時に首を切られた国鉄労働者1047名の闘いは19年目に入った。この19年間を家族はどう生きてきたのか。熊本闘争団・野田学さんの妻、ユミさんの思いを伝える。

 鉄建公団訴訟個別立証第3回目の昨年11月4日、野田ユミさんは東京地裁前でマイクを握った。「安全のために頑張ってきた夫を、私が一番愛し信頼する夫をJRは首にした。この思いは一生忘れない。けれど、今はJRに「お礼」が言いたい。こうやって皆さんの前で話ができるまでに、JRのおかげで私はこんなに強くなった。絶対に負けない」。気負うことなく、元気に語りかける姿に参加者は心打たれた。

夜の集会にも参加(04年11月4日・東京)
写真:夜の集会にも参加(04年11月4日・東京)

 18年前の2月16日、紙切れ一枚で解雇を通告された日。野田さんは2人目の子の出産直前だった。「子どもが小さい時が一番つらく大変な時期だったんでしょうけど、今はそう思わない自分がいるんです」と振り返る。

仲間の支え

 「当初はこんなにつらいのは旦那の責任だと恨んだこともあります。でも、旦那は一生懸命になぜ闘うのか話してくれました。支援の方々が大牟田に来て励ましてくれ、闘争団の仲間や近所の人たちが助けてくれました。そんな人たちの支えで乗り越えることができました。そのおかげで今の私があります。たくさんの方々との出会いがあり、私自身成長し強く生きる勇気を与えていただきました。笑いを忘れていた私が、今では日々の何気ない出来事に幸せを感じられるようになりました」

幼な子2人をかかえながら、家計を支えるために昼も夜も働き詰めの毎日だった。友人が経営する料亭の仲居やカラオケボックスのアルバイトもした。当時、急に胸が苦しくなって倒れることが頻繁にあった。医者に「過労による心因性の狭心症。これを何回もやるとパーキンソン病になる」と言われるまで必死に働く日々だった。

「夜の方が時給がいいから」と、叔父が経営するカラオケでは夜8時半から午前3時まで働いた。そのため、家族そろって朝食が食べられない。この仕事を辞めてみんなで朝ご飯を食べた時、子どもが「朝食でみんな一緒がうれしか。幸せだよね」と言った。「幼いながら子どもたちもつらかったと思います」

子どもたちに感謝

 2人の息子は今、奨学金を受けて大学に通っている。高校時代は周りがみんな塾に通っているのに、通わせる金もなかった。息子たちは冬休みに郵便局でアルバイトをした。2人に野田さんの弟がお年玉を渡した時のこと。口をそろえて「いやーよかよ。この1万円ば稼ぐとは大変やん。申しわけなかもん」。横で聞いていた野田さんは「お金の大切さ、働くことの意義、他人への思いやりなどを受けとめることのできる子どもに成長してくれた。うれしく、感慨深く、子どもたちに感謝しました」。

 また、野田さん夫婦が仕事を変わる話をした時にも、「お父さん、お母さんなら大丈夫。どげんかするやろ。何も心配しとらんよ」と励ましてくれた。「私たちをそんなふうに見ててくれたと思うと、これまでやってきたことは間違っていなかった、親として人として恥じないように生きていかねば、と思いました」

 鉄建公団訴訟の闘いは9月15日の東京地裁判決を前に正念場を迎えている。7月には家族の座り込みも計画されている。野田さんは「東京に行きたいって手を挙げました。自分ができることは精いっぱいやりたい。あの時こうすればなどと後で悔いを残したくない。できれば家族みんなで行きたい」

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