2005年06月10日発行890号

靖国批判は内政干渉か

【感情論で迫る反中国キャンペーン / 「ブチ切れ軍拡」へ世論を誘導】

 日中間に険悪な空気が立ち込めている。ことの発端は、靖国神社参拝に対するアジア諸国の批判を「他の国が干渉すべきでない」と斬り捨てた小泉首相の発言だった。マスメディアを巻き込んだ感情的な中国バッシングは、この国をますます危険な方向へ導こうとしている。靖国参拝の何が問題なのか。


小泉の居直り発言

 日本を訪れていた中国の呉儀副首相が、小泉首相との会談を急きょ取りやめ帰国した。中国外務省が後日認めたように、これは小泉が靖国神社参拝を継続する意向を表明したことへの対抗措置である。

 この会談キャンセル事件をきっかけに、政府自民党内から「国際マナーに反する」「大使館への破壊活動と一脈通じるものがある」といった非難の声が続出。マスメディアの多くもこれに追随し、中国バッシングをくり広げるという事態に発展した。

 日中間の対立を抜き差しならない状況に追い込んだのは、小泉純一郎その人である。自身の靖国神社参拝について、小泉は国会でこう語った(4/16衆院予算委)。

 「戦没者に対する追悼の仕方に他の国が干渉すべきではない。A級戦犯の話がたびたび論じられるが、『罪を憎んで人を憎まず』は中国の孔子の言葉だ。(靖国参拝に)いつ行くかは適切に判断する」

 何が「罪を憎んで人を憎まず」だ。それは被害者が加害者を許すときに言うセリフである。小泉のそれは強盗殺人犯の居直りとしか聞こえない。

 そもそも小泉発言は事実関係自体がでたらめである。靖国神社は、小泉が言うような戦死者を追悼する施設ではない。戦死者に最高の栄誉を与えることによって、国民を新たな戦争に動員していくための儀礼装置なのだ。その役割はかつても今も変わっていない(このあたりは、高橋哲哉著『靖国問題』が詳しい)。

参拝への抗議は当然

 追悼とは、死者の生前をしのび、その死を悲しむことを言う。靖国神社に「戦死を悲しむ」という視点があるか。答え、ありません。「天皇のため、国家のために死ぬこと」は、むしろ喜ぶべき栄誉とされている。

 当然、アジアの戦争被害者に対する追悼の念などかけらもない。靖国神社発行の『忠魂史』を読むと、日本の侵略や植民地支配に抵抗した人々を「蛮人」よばわりしていることがわかる。その一方で、抵抗闘争を武力弾圧する過程で死亡した日本軍の将兵は「護国の神」と称えている。

 まさに血塗られた戦争神社と言うほかない。A級戦犯の合祀だけが問題なのでない。靖国神社そのものが侵略戦争を正当化する歪んだ歴史認識の産物なのだ。

 そんな場所に一国の首相が公的立場で祈りを捧げることは、国家として「日本の戦争は正しかった」と宣言することを意味する。これはアジアの戦争被害者やその遺族にとって精神的暴力以外の何ものでもない。中国や韓国政府が抗議するのは当然のことである。何ら「内政干渉」にはあたらない。

排外主義の煽動

 ところが日本の報道はというと、靖国問題を歴史的背景から論じたものはまずない。大半が「舐めるな、中国! / ドタキャン副首相許さん!」(6/10週刊ポスト)といった感情論に終始している。

 反中国感情を焚きつけるこれらのキャンペーンには、明らかに戦争勢力の意向が働いている。彼らは世論を排外主義的なナショナリズムに染め上げることで、戦争国家づくりの総仕上げに突き進もうとしているのだ。

 たとえば、歴史の歪曲である。会談キャンセル事件の4日後、森岡正宏・厚生労働政務官(自民党)は「極東国際軍事裁判は平和や人道の罪を勝手につくった一方的な裁判だ。日本国内ではA級戦犯は罪人ではない」と発言した。

 日本の戦争責任を根本から否定する問題発言であり、一昔前なら更迭・辞職は必至だった。だが、小泉は「個人の発言」として不問に付しているし、マスメディアも責任追及の役割をはたしていない。中国バッシングの嵐が侵略戦争の正当化を許容するムードをつくりだしている。

 反中国感情をテコにした排外主義的ナショナリズムの煽動−−それは対抗手段としての軍事力増強・武力行使の容認へと世論を誘導していく。政府が言いにくい本音は、例によって戦争大好きデマゴーグの石原慎太郎都知事が率先して代弁してくれる。「尖閣列島に自衛隊を常駐させよ」(『文藝春秋』6月号)といった主張がそうだ。

 排外主義の煽動は、『週刊プレイボーイ』のような若者向け雑誌が「自衛隊よ、逆切れ武装で反日国家を黙らせろ!」(5/3)といった特集を組むなど、あらゆる方面に及んでいる。戦争勢力の策動に踊らされてはならない。いま必要なのは、アジアの戦争被害者の立場で考える冷静な視点ではないか。 (M)

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