ロゴ:国際法を市民の手に 前田朗 2005年07月01日発行893号

(69)『女性国際戦犯法廷(7)』

 女性国際戦犯法廷開催の正式提案は1998年5月のアジア連帯会議(ソウル)であり、6月には東京でVAWW NET ジャパン(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク)設立総会が開かれているが、そこに至る経過をもう一度大急ぎで振り返っておきたい。

 日本軍性奴隷制問題が急浮上したのは、1990年のことである。きっかけはJRの定期券差別問題であった。当時、JR各社は朝鮮学校生徒に学割定期券の購入を認めていなかった。そこで「在日朝鮮人・人権セミナー(実行委員長・床井茂弁護士、事務局長・前田朗)」は、JRに対して差別撤廃要請行動を行なっていた。そして、1990年6月、国会質問が行なわれた。強制連行・性奴隷制被害者の子孫である朝鮮学校生徒に通学定期券購入を認めるようにとの趣旨で、本岡昭次議員および清水澄子議員が質問に立った。慰安婦問題について、本岡議員が軍の関与を指摘して情報公開を求めたのに対して、日本政府は「民間の業者が連れ歩いたもので、軍は関与していない」と答弁した。その報道に接して「日本政府は嘘をついている。私は日本軍の慰安婦だった」とカムアウトしたのが、金学順ハルモニであり、その後、韓国、朝鮮、中国、台湾、フィリピンなどから続々とサバイバーたちが名乗りを上げた。

 問題を国際法のレベルで解決するために動いたのが戸塚悦朗(龍谷大学教授、当時は弁護士)であり、1992年2月の国連人権委員会にこの問題を報告した。

 1993年、韓国挺身隊問題対策協議会は東京地検に対して犯罪者の捜査・訴追を求めて告発しようとしたが、東京地検はこれを受理しなかった。当時の日本の戦後補償運動はこれを十分サポートすることができなかった。「慰安婦」問題が戦争犯罪であり、人道に対する罪であると認識し、行動していたのは、まだ戸塚教授など少数に過ぎなかったといえよう。

 しかし、国際機関では国際法に基づいた議論が深められていく。1993年、テオ・ファン・ボーベン「重大人権侵害の回復に関する特別報告者」の人権小委員会報告、1993年のウィーン世界人権会議や1995年の北京世界女性会議における議論、1996年のラディカ・クマラスワミ「女性に対する暴力特別報告者」の国連人権委員会への報告書、1996年のリンダ・チャベス「戦時組織的強姦・性奴隷制特別報告者」の人権小委員会への報告書が続く。こうして、日本軍性奴隷制は、醜業協定、醜業条約、強制労働条約、奴隷の禁止に違反する国際法違反であり、戦争犯罪であることが次第に認識されるようになった。サンフランシスコ条約や日韓条約で問題は解決したという日本政府の主張も繰り返し検討され、問題が解決していないことが確認された。

 1998年4月9日、国連人権委員会会期中に同じ建物の会議室で、クマラスワミ特別報告者を招いてNGOフォーラムが開催された。主催者は、松井やより(アジア女性資料センター、インダイ・サホール(マラヤ・ロラズ)などであった。中心的な議論となったのは、1996年のクマラスワミ勧告が責任者処罰を掲げたのに日本政府が全く無視していることであった。1993年の告発不受理が想起された。「政府が裁かないなら、何とか自分たちの手で民衆法廷のような動きを作れないだろうか」という松井発言に即座に反応したのが、韓国挺身隊問題対策協議会代表である。「民衆法廷は大歓迎だ。日本側からそういう提案が出たなら全面協力する」。

《参考文献》

・戸塚悦朗著 

『日本が知らない戦争責任』(現代人文社、1999年)

・本岡昭次著

『「慰安婦」問題と私の国会審議』(本岡昭次東京事務所、2002年)

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