2005年12月16日発行916号

【重い扉を開けて 中国再訪(六)】

 0五年五月二十二日(日)、

 七時起床、八時朝食、金壇に向け車で出発。館長、方、朱両君同行、徐さん見送り、彼女頻(しき)りに私の健康を案じてくれる。何となく家の孫に送られる気分。国とか民族の違いなど人間同士の心の繋がりに全く関係はない。

 曇天だが明るい暖かい休日で巷に人出が多い。上海郊外まで高層ビルや住宅団地が続くが、やがて見はるかす江南の浴野となる。昔ながらの白壁の農家も見られるが工場団地と覚(おぼ)しい一廓も点在する。この世紀の、大陸の変貌を象徴する光景だ。

 方君が、この辺に見覚えはあいかと訊くが、さて、無いなあと答える。当時の我々の移動は徒歩かトラックか、とにかく目標に向って進むこと、辺りを見廻す余裕などあろうはずはない。

 二年間の警備勤務中、この辺りに出動したこともあったろうが、記憶に止めていない。尤も以来六十年、人も社会も変っている。うろうろ生きているのは俺ぐらいのものか、と憮然とする。

 十一時、さあ金壇ですよ、と告げられる。愈々である。

 流石(さすが)に市内は都会風景、日本の地方都市と感じはそう変らない。南京まで車で一時間半くらいだそうだから、我家と大阪ほども離れていない距離だ。

 市内のホテルに着くと忽ちワッとカメラに囲まれる。例の如くだ。聞く処によると、旧日本兵がこの町まで来たのはここ数年来無かったという。しかもこの金壇駐留の体験を持ったというのだから地元マスコミも格好の話題と待ち構えていたらしい。

 先行した朱君がスケジュールを決めてくれて、先ず市街を一望出来るビルの屋上へ。足下の広場を指さして「彼処(あそこ)に日本軍兵舎があったのです」。多分連隊本部、大隊本部、それに我々が現地教育を受けたり、初年兵教育の助手を勤めたりした場所だろうと思うが、現在はグランドのように平坦な広場のみ、当時を偲ばせる何物も無い、当然のことだが。

 朱君が「本多さん、泣かないでくださいよ」と言う。「どうして」「思い出の場所です」

 案内されたのが中山公園。市内に幾つかある公園の中で多分私の通ったのはここだろう、と彼は言う。深い樹立ちを抜けて車を降りると、あヽと思わず天を仰いだ。思い出したのだ。

 この路、この森この池、そしてこの小亭、休日毎に、父から届く何冊かの文庫本を抱えて私はここに通った。一九四〇年春から秋口まで、教育助手として金壇大隊本部詰めとなり、外の兵の中には慰安所行きも居たが、私はいつもこの公園で過した。父のお蔭という外はない。

 (「わんぱく通信」編集長)

ホームページに戻る
Copyright Weekly MDS