2006年02月03日発行921号
解剖自民新憲法案 5

【第20条3項 政教分離を骨抜きに 靖国復権で戦争動員狙う】

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第20条3 国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。(自民党草案)

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国による宗教活動を容認

 日本国憲法は第20条1項の後段と3項で政教分離の原則を定めています。宗教団体が国から特権を受けたり、政治上の権力を行使することを禁じ(1項)、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(3項)と明快に規定しています。

 こうした政教分離原則が自民党の新憲法草案では骨抜きにされています。20条3項を「社会的儀礼・習俗的行為を超えない範囲ならば、国が宗教的活動を行っても構わない」という内容に変えようとしています。

 その狙いは何でしょうか。結論から言うと、国民を戦争に動員していくために、国家による「宗教的儀礼」を必要としているからです。具体的には、かつてそうした役割をはたしてきた靖国神社の復権をもくろんでいるのです。

宗教利用し軍国主義推進

 そもそも政教分離は、精神的自由権を保障するものとして、近代国家の基本原則になっています。ただし、そのありようは国によって違います。日本国憲法の政教分離規定は非常に厳しい部類に入ります。

 歴史的経緯を考えれば、それは当然のことです。近代日本国家は国家神道という事実上の国教をつくりあげ、天皇(国家)への絶対忠誠を国民意識に植えつけていきました。天皇崇拝や神社参拝を強要し、それに従わない者には容赦ない弾圧を加えました。

 また、靖国神社は侵略戦争への精神的動員装置として機能していました。戦死した兵隊の功績を称え神として祀ることで、遺族の悲しみや怒りを回収し、若者や子どもたちには「後に続け」と教え込みました。

 国家が宗教を利用して軍国主義を推進した−−日本国憲法の政教分離原則は、そうした歴史の反省にもとづいています。二度と国家が個人の心に入り込み、侵すことのないように、厳しい法の縛りをかけたのです。

首相の靖国参拝 現行では違憲

 残念ながら、戦後日本で政教分離が厳しく守られてきたとは言えません。最高裁自身が「目的効果基準」とよばれる拡大解釈論をとっています。「憲法は国家が宗教とかかわることを一切禁止したのではなく、日本の社会的・文化的諸条件に照らしあわして相当とされる限度を超えるものを禁止しているのだ」というわけです(津地鎮祭訴訟判決)。

 しかし、多くの学説はこの判例に批判的です。恣意的な判断でどうにでもなる解釈を認めたら、法の精神を損なうことになってしまうからです。そこで裁判所としては、「目的効果基準」を継承しつつ、厳格な適用でバランスをとる傾向にあります。

 昨年9月、大阪高裁は小泉首相の靖国神社参拝について、「特定の宗教を助長し、相当とされる限度を超えている」として、「憲法20条3項が禁じる宗教的活動にあたる」との判断を示しました。同種の裁判で憲法判断に踏み込んだケースは、すべて「違憲」の判決が出ています。つまり、今の憲法で首相の靖国参拝を正当化するのは無理がある、ということです。

戦死者追悼・顕彰のシステムづくり

 厚顔無恥な小泉純一郎首相も、さすがに相次ぐ違憲判決を無視することはできなかったのでしょう。昨年10月の靖国参拝では、「私的参拝」を強調するために、平服で参拝し拝殿前で手を合わせるだけという形式をとりました。

 これには右派勢力から強い不満があがっています。たしかに、ポケットからさい銭チャリン式の参拝では、戦死者を称えるにはあまりに軽すぎます。遺族も「ありがたい」とは思わないでしょう。

 本格的な海外派兵を狙う戦争勢力が求めているのは、国家による戦死者追悼・顕彰システムの確立です。それには厳粛な雰囲気を醸し出し国民の感情をゆさぶるような宗教的儀礼が欠かせません。だから自民新憲法草案は、政教分離原則という縛りを解こうとしているのです。

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 国家が特定の宗教と結託し、その教義を人々に押しつけるようでは、思想・良心の自由は絵に描いた餅と化します。思想・良心の自由が保障されないと、国策に異議を唱えること、たとえば戦争反対の声をあげることも難しくなります。政教分離ができていない国は主権在民の民主主義国家ではありません。そんな国を自民新憲法草案はつくろうとしているのです。

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