2006年12月15日発行965号

【童話作家のこぼれ話〈60〉鬼神クジラとワカメスープ】

 「クジラとの衝突事故を避けるために、通常より低速で運航しております。ご迷惑をおかけしますが、ご理解ください」

 高速船とクジラが衝突する騒ぎの真っ只中、対馬と福岡を結ぶ高速船に乗った。船内では前述のアナウンスがくり返されていた。不安気な乗客をよそにぼくは、韓国で「鬼神クジラ」と呼ばれているコククジラの出現を期待していた。しかし目を皿にして探しても、海面にコククジラの姿はなかった。

 「鬼神」という言葉を辞典で引くと、「ばけもの」とか、「超人的な能力を有する存在」とある。事実、コククジラの体にはフジツボなどがたくさん付着していて、おそろしい容姿をしている。エサのとり方もたいへん変わっていて、海底の砂を削るように口に入れて砂を濾して海底生物を食べる。「ばけもの」と呼ばれても仕方ないが、「鬼神クジラ」のいわれは決して「ばけもの」だからではない。

 中国の古い書物『初学記』には、「子を産んだクジラがワカメを食べて体を癒すことを見た高麗人が、産婦にワカメを食べさせるようになった」という記述がある。クジラの種類については記されていないが、コククジラの可能性が極めて高い。太平洋西側・アジア系のコククジラは、夏をオホーツク海で過ごしたあと、海が凍る頃に沿岸を南下、韓国や中国の海で出産・子育てをする。外洋に出ないので当時の船でも容易に発見し、ワカメを食べている姿を観察できたはずだ。

 朝鮮半島ではこれが言い伝えとなり、産後しばらくの間は「回復食」としてワカメスープを毎食とる風習ができた。誕生日もワカメスープで祝う。現に、ワカメにはカルシウムやヨードといったミネラルが豊富で、妊婦の滋養や授乳に極めてよい効果をもたらす。まことに理にかなっている!

 1912年、コククジラの研究のために蔚山(ウルサン)にやってきたアメリカ人の学者、ロイ・エンドリューは、実際にコククジラのお腹を開いてワカメなどの海藻が溶けてできたゼラチンを確認した。

 つまり先人は、人間も知り得なかった「智慧」を持つ、「超人的な能力を有する」コククジラへの畏怖を、「鬼神」の名にこめたのだ。

 ところが、コククジラは乱獲がたたり激減。韓国は1962年に「回遊海面」を天然記念物に指定したが、77年を最後にして姿を消した。絶滅がささやかれていた02年、下関で開催されたIWC(国際捕鯨委員会)で約百頭の生息が報告された。まさに「鬼神」の如き復活だった。

 日本と韓国の間にある対馬海峡は、希少な「鬼神クジラ」が回遊する海。彼らが出産・子育を終えて北の海へ帰るまでは、「高速船」だけど「低速」で運航してほしい。

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