米国による広島、長崎への原爆投下について「しょうがない」と発言した久間章生防衛相(当時)は、世論の激しい批判を浴び、辞任に追い込まれた。この一件を久間だけの責任に帰すわけにはいかない。なぜなら安倍内閣自体が「国益(=支配階級の利益)を守るためなら人命を犠牲にしてもしょうがない」という立場に立っているからだ。
戦争犯罪を正当化
7月3日の辞任会見で、久間は「米国を恨んでいないということを言いたかった」と弁解した。もちろんこれはウソである。久間は米国を擁護しようとしたのではないし、安倍首相の言うように「米国の考え方を紹介した」わけでもない。
問題の「しょうがない」発言を詳しく見てみよう。久間は日本の防衛政策に関する講演で、日米安保条約を結んだことの正当性を説明する際、原爆投下に言及した。長くなるが、以下引用する。
「(米国は)日本が負けるとわかっているのに、あえて原子爆弾を広島と長崎に落とした。そこまでやったら日本も降参するだろう、そうしたらソ連の参戦を止めることができるということだった。幸いに戦争が8月15日に終わったから、北海道は(ソ連に)占領されずにすんだ。原爆も落とされて長崎は本当に無数の人が悲惨な目にあったが、『あれで戦争が終わったんだ』という頭の整理でしょうがないと思っているし、それに対して米国を恨むつもりはない。原爆まで使う必要性があったのかという思いは今もしているが、国際情勢や占領状態からするとそういうことも選択としてあり得るんだということを頭に入れながら考えないといけない」
要するに、久間発言の核心は「ソ連の占領=日本の社会主義国化を未然に防いだのだから、原爆投下はしょうがない」ということにある。彼の頭の中では、原爆で「無数の人が悲惨な目にあう」ことよりも「ソ連の占領」を防ぐことのほうが、国家の利益(=支配階級の利益)にとって重要なことなのだ。
ちなみに、「原爆投下は終戦を早めるため」という久間の説明は米国政府の言い分でもあるのだが、これは事実に反する。原爆投下の約3か月前、原爆開発の最高責任者は「ウラン型とプルトニウム型の2発を投下し、効果をテストする」との方針を決めていた。広島、長崎への原爆投下は人体実験であり、国際法違反の無差別大量虐殺である。「しょうがない」で済まされる話ではない。
背景に「戦後の脱却」
久間はかつて有事法制の議論に絡んで「90人の国民を救うために10人が犠牲にならなければならないとしたら、そういう判断を下すことはあり得る」と語ったことがある。国民の1割(日本の場合、1千万人超!)が戦争で死ぬとはとんでもない話だが、こうした発想の延長線上に「原爆しょうがない」発言があることは明らかだ。
今回の久間発言は彼自身の、そして安倍政権の本音である。「戦後レジーム(体制)の脱却」を掲げ、核武装論ですらタブーではなくなった安倍政権の雰囲気が久間の放言を導いたといえる。
原爆使用を正当化する久間発言や麻生太郎外相らの核武装発言が示すように、安倍政権の唱える「戦後レジームの脱却」とは、ひらたく言えば「戦争を絶対悪視せず、政策の選択肢として認める」ということだ。国益(しつこいようだが、正確にはグローバル資本及び支配階級の利益のこと)のためなら、武力行使で死傷者が出ても「しょうがない」ということなのだ。
戦争勢力は追放だ
ただし、国民に対して「戦争の実体は資本の儲けのための殺し合い」だと認めるわけにはいかない。「軍隊が守るのは『国家』であり、市民ではない」という軍事上の常識が広まってもいけない。そんなことになれば、戦争への動員が難しくなる。
政府・自民党による歴史歪曲策動(「従軍慰安婦」の強制性を否定した安倍首相発言や歴史教科書の沖縄戦「集団自決」記述の書き換えなど)が相次いでいる理由はここにある。軍隊による人権侵害の典型というべき日本軍性奴隷制の実態や日本軍が自国民に銃口を向けた沖縄戦の真実は、これから戦争をしようとしている為政者にとって、国民にはどうしても隠しておきたいことなのである。
戦争国家づくりを進めている連中が「原爆投下はしょうがない」とうそぶき、「核武装を議論せよ」とわめき、軍隊にとって都合の悪い史実を歪曲し、自衛隊に批判的な市民の動向を監視する−−まったく何というわかりやすい構図であろう。
久間辞任でトカゲの尻尾切りをしても、不戦の憲法を破棄しようとしている安倍“戦争”内閣の性質は変わらない。きたる参院選は安倍自民党をはじめとする戦争勢力に国民の審判を下すときだ。戦争による人殺しを「しょうがない」と考えるような連中を国会から追放しなければならない。 (M)