2021年09月17日 1690号

【哲学世間話(28) 田端信広 天皇の五輪開会宣言と菅不起立=z

 東京五輪の開会式を伝えるニュースで、興味深い光景を目にした。天皇の開会宣言が始まっているのに、最初、菅首相と小池都知事はしばらく着席したままでいた。途中で小池があわてて立ち上がり、促されて菅も「ばつ」が悪そうに立ち上がったのである。その映像を目にした読者も多かったであろう。

 事態を自然に眺めれば、こう受けとれる。菅にとっても、小池にとっても、天皇の開会宣言は直立不動で拝聴するほどのことではなかった。だから、二人は漫然と座り込んだまま聞いていた。だが、途中である種の政治的判断が働き、急きょ立ち上がったのだ。だが、「時すでに遅し」であった。皇室に敬意を払わない首相と都知事の姿が全世界に配信されてしまったのである。

 この「不祥事」はさまざまな立場から非難されている。鳩山由紀夫元首相はこうツィートした。「彼らは天皇を都合よく使うことには長けているが、天皇を崇拝する気持ちはさらさらないことが天下に明らかになった」。ネット右翼は「不敬罪だ」「非国民だ」といきり立っている。

 菅や小池を弁護する気はさらさらないが、戦前ではあるまいし、この種の非難は時代錯誤的である。

 それは、今回の事態を過去の同様の事例と比較検証してみればよく分かる。1964年の東京五輪、1972年の札幌冬季五輪、1998年の長野冬季五輪、いずれも天皇が「国家元首」として開会宣言をしているが、当時の写真を見ると、そのとき天皇の周囲の人びとのほとんどは平然と着席したままなのである。そして、そのことで「不敬」やら「非国民」やらの批判が巻き起こったことはなかった。かつては、それはごく「自然なこと」であった。

 二つの事例に見られる「社会的」反応の落差はわれわれに何を教えているか。それは、この20年ほどの間に皇室や国家に対する崇拝や服従を「当然のこと」として強要する風潮がいかに強められたかということである。それと同様の落差は、教育現場における「日の丸・君が代」に対する起立の強要への反対運動の推移にも見てとれるだろう。

 だから、菅と小池の態度を単純に「大失態」だと言って済ますわけにはいかない。そういう非難にも、かの崇拝や服従の強制を当然視する感覚が、無意識のうちに刷り込まれていないかを顧みる必要があろう。

  (筆者は元大学教員)
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